らくがきを見せて笑いあう

ずっと前に読んだ『デザインノート』


デザインに関する知識や技術って、ちょっとしたことでもとっても長く残る気がしますす。どんなことにでも応用がきくといいますか。ずっと前に手に入れた『デザインノート』という雑誌に載っていた、デザイン入門者向けの記事にあった知識だけで、私はずっといままで「だれかに何かを伝える」という目的を満たしてきたように思います。


だれかをよろこばせるという動機


1枚のチラシが伝えるのは「5WH」とかよくいう、いつ、どこで、だれが、なにを、なんのために、どうやってやるかといったことです。それを伝えるためのデザインを考えるのだけでもじゅうぶん奥深いと思います。


その「なんのために」のところに、「だれかをよろこばせる」というのが入ってくる。特定の誰かだったり、一定の共通点を持った集団だったり、その「一定の共通点」がもっとぼかされて曖昧に広くなったりする場合もある、と。


情熱とすき間


その動機を満たすためのアクション。それを、堅っくるしくなく、やわらかぁく、楽しんでやる感じに私は憧れます。なるべくいつもそういたいと思います。実際、できている部分もあると思いますし、まだまだそれが及ばない部分がそれ以上にあります。崇高な目的、だれもがうなずかざるを得ないようなありがたいミッションを達成するための、つらく苦しく長い道、そういう方へ行く努力をいとわない、実際にやるのも大事だとは思います。そのための原資となってくれるものが、情熱かもしれないと思います。それも大事だろうけれど、教科書の余白にらくがきをして、隣や後ろの席の子を笑わせちゃうような、いっしょになってお腹をおさえて顔を伏せて先生の目を盗んでくすくすひくひくしちゃうような、そういう「あそび」の時間や場所や機会、すき間を持っていたいと思います。


「手慰み」と「意味」


じぶん一人の、余った手や足や頭を動かしてただ埋めるだけのおこないを、私はいやというほどしてきているように思います。いえ、もう少し厳密にいいますと、それは「いや」と思うことはない。つい、いくらでも、暇つぶしをするみたいに、ずっとやり続けてしまいます。他者に言わせれば、「無意味」かもしれません。その余白も、大事にしたい。一方で、「だれかがだれかをよろこばせる」そのために機能する、そういった「意味」を持つおこないも、考えていたし、やっていたい。


私もちいさな豆絵本をつくったことがあった。


ちょっとした「余白」みたいな時間をすごすことがあって、たまたまそこに紙やらペンやらテープやらのりがあったので、私も「時間を埋める」ようにして小さな豆絵本をつくったことがありました。余った手足や頭をそこにあてがっただけ、その結果としてできた作品です。私にはちいさい息子がいますが、そのとき、その息子を思ってつくったのだったかあまり覚えていません。「息子をよろこばせる」ことを確かに思ってアクションしたのだったらば、豆絵本はもう少し違ったものになっていたのかもしれません。いえ、あいつ(息子)にこれ見せたらどんなリアクションするかな、なんて「うしし」と思うふしがなかったわけでもないとも思うのですが・・・



お読みいただき、ありがとうございました。