未死と墓石

ついつい、自己否定から入ってしまいます。おれは、これこれこのへんがだめだ、と。


変わる意思があるのかもしれません。今はこうだめだけれど、これからそれを変えていきたいという意思が。まだ終わりじゃないよ、と言いたいのかもしれません。これからも続いていくよ、とアピールしたいのです。かまってほしいのが見えていますね。


何かを完成させるのは、終わらせることなのでしょう。で、完成させてしまったら、それを否定された場合、言い訳のしようがありません。「いや、これはまだ完成じゃないから」「そこはこれから手を入れようと思っていたんだ」いずれも、完成とした以上、つかえない言い訳です。完成形に対する否定は、認め、受け入れるしかない。あるいは、否定の根拠のおかしさを自分であばき、反論するしかない。その労力、アフターケアが必要になってきます。


たくさんのことが未完成のまま、自分というプロジェクトに乗っかったままの状態を思います。あんまり増えると、気付かないうちにこぼれ落ちてしまうかもしれません。忘却です。ほかにも言い方があるかもしれません。未完成のまま、触られなくなって、だれも、自分さえも手を入れなくなってしまったら、プロジェクトはなかったことになってしまうかもしれません。死ぬことすらも、許されず。


ドカンと墓石のひとつでも立てて「完成」としたら、時間が立ってもまた墓参りに来て、現在の自分と対比させてその違いに思いを馳せることができます。そこに、あらたな発想のひとつでも生まれるかもしれません。来ようという意思がなくとも、今のじぶんが歩く道とどこかで交わるかもしれません。ああ、おれはまだおんなじ地球を歩いているんだなぁ、なんて思うかもしれません。


忘れさえしなければ、手を入れ続けて生かしていられるのならば、未完成のままにしておくほどに、それは洗練され、良くなり続ける可能性もあります。


ネットという宇宙が開発されたことで、両手で持てるぶんしか生かし続けられなかったプロジェクトの総量が、増えたのかもしれません。でも、それは思い違いも含んでいるのじゃないか、という風に疑ってもいる私がいます。


お読みいただき、ありがとうございました。