わかってほしいのに、なんで違いを出そうとするんだろう。

私は演奏や歌唱や作曲や作詞の活動をします。自分がやりたいようにやって、やれることをありのまま形にするのが至上目的です。


でも、だれかに聴いてもらって、いいねって言ってもらえると、自分の外側にも自分ができたみたいで、とても嬉しい。自分がいいと思うようにつくったもの、表現したものを認めてもらえると、いいことだと思ったのは自分だけじゃなかったんだという安心が得られます。なるようにしかならない自分の仕事、活動の成果を受け入れてもらうことで、自分そのものを受け入れてもらえたような気になります。


自分が音を鳴らせば、歌をつくって声をだせば、ほかの人と同じようには絶対になりません。人は人間のまねごとで人間になっていくから、どこか似たようになっちゃうことはあるかもしれないけれど、まったく同じようにはならないはずです。それを認めてもらうことで、自分も人間の中で、替えのきかない存在になれたかのように思うのです。


そう、わかってほしい。なのに、ほかの人との違いを出そうとするのです。何者かよくわからない「わたし」を、何者かにしようとしているみたいです。


かと思えば、その「わたし」からまた違う者になろうとする。「そのわたし」はもういるから、でしょうか。「そのときのわたし」とも、また違うわたしになろうとするみたいです。過去の自分と同じままでいたんじゃ、あのときのわたしと替えのきく自分でいるままになってしまいます。替えがきくなんて言っても、「わたし」は一人しかいませんから、ちょっと変な言い方かもしれませんが。


「あのときのおまえ」さえいればいいよ。と言われたら、おまえは変わらなくていい、成長しなくていいよと言われているようなものです。わたしが変化すること、成長することは望まれていないのか? と、「生きたわたし」を否定されたかのような気持ちにさえなるかもしれません。


誰が望まなくとも、私が望む。変わった自分を。成長した自分を。他の人は想像もしなかったかもしれないけれど、その変わった姿をまた提示して、人間のメンバーとして認めてもらおうとするのです。人という動物として生きるだけじゃなく、人間という存在であるために。


うちには乳児と幼児がおりまして、毎日、人間発表会をやり合っているところです。


お読みいただき、ありがとうございました。