もちの味

なんで年末に餅つきをやるんでしょうかね。と思って検索したら、新年を祝う鏡餅をつくるためといった答えに結びつくものがいくらか出てきました。家長が鏡餅をひらいて家族に配るのが「お年玉」なのだとか。今では「お金」ですね。ほとんどの家ではもちつきをやらないでしょうし、鏡餅を飾る家も少ないのではないかと想像します。


私は中学校で仕事をしていたことがあります。そのときに、12月に学級の行事としておこなわれたもちつきに何度か参加したことがありました。臼と杵で、みんなでつくのです。中学生たちが杵でつく体験をしたら、先生たちや私ら大人でつき、仕上げて大量に作ったものでした。学校の敷地内の菜園のそばにドラム缶を改造したようなおおきな蒸し器、いえ、釜というんでしょうか? そんなようなものを設置して、もち米を蒸して、それをついていました。その前日には、地域の米穀店の方がもち米を水に浸けておいたり、もちつき道具を使える状態にして搬入したりといった準備がありました。その上で、当日のもちつき会が成り立っていました。


臼や杵にくっついちゃったもちの一部を、その場でひょいとつまみとって、ぱくっとやる。このもちの味は、ちょっとした役得です。もちは調理室でひとくち大にちぎりとって、きなこやらあんこやらしょうゆを敷いた大きなバットに入れて、まぶして絡めました。そばでは、お供にする豚汁の調理も平行していました。午前中にそれらをやって、ちょうどお昼になって、みんなで食べる。寒かったね〜お疲れ様、なんて言い合いながら。


一年間の実り、それらの収穫なんかはみんな済んで、さて新しい年を迎える準備をしようというのが、農民の暮らしにおいての今頃の季節だったんでしょうかね。それとはべつに、年度という区切りがあって、今の私にとってはどちらかといえばそちらのほうが支配的に感じられます。季節と無関係ではありませんが、ちょっとずれていますね。


「もちつき」に、「暮らし」を思う。


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