休んでいるか? 働いているか?

時間的に余裕がないと、いよいよやるしかなくなります。それで、急に猛然とやりだすことがあります。それが、私の常です。


ですが、たまにちょっと早めに動き出せることもあって、これを今のうちにやっておくと、あとが楽だぞというのがわかって、やるべきことが明確になっていることをささっと片付けておいてしまえることがあります。たまにですけれど。


そんなとき私は、そのやるべきことがわかっていることをほったらかしにしていると、あとで大変になるのを直感しているのかもしれません。「あとはやるだけ」のソレと、どうやってやるか、何をやるかさえまだ見えていないことが同時にいくつも存在してしまうのはとても大変ですから、はやいとこ片付け方がわかっている物ごとはそのときに済ませてしまうに越したことはありません。


やり方とか、そもそも何をやるべきかの判断がまだついていないことに、私は頭を悩ませがちです。例えば、卒論のテーマを何にするか、焦点をどこにするかみたいなことでしょうか。さっさと決めないと動き出せないのに、私は慎重になって、気になったことをあれこれ調べながらああでもないこうでもないとうろうろするのに長い期間を費やしてしまいがちです。そんな私には、「えいや!」と動き出してしまってから、あとで「イヤ、これはやっぱり的外れかも」と気付いて方向を修正するとかいっそ全部やり直すとかした方が、よっぽど学べることが多いのかもしれません。まぁ、結果的にかかる期間はドッコイドッコイかもしれませんし、そのやり直しとか方向修正が許される条件下のみでの戦法ですけれど。


どん詰まったときは「えいやっ」と休んでしまって、仕事を動かせない状況をあえてつくることで、戻ったときに猛然とやり始められるという効果が得られるかもしれません。でも、休んでしまって、使えたはずの時間をより少なくしまったら余計苦しくならないか? とついつい私はたじろぎがちです。


休まないで、それまでどおりに仕事をまわしながら、でも一見それは回せているようでいて実はどん詰まったままどんどん時間ばかりが過ぎていっている、そんな状況が自分にはあることを思います。休んで、ちょっといつもとは違う状況を自分に与えることで、そのどん詰まりをほぐして流れを良くするチャンスが得られたり、解決の切り口を見つけることだってあるでしょうに、ついついどうしようもない状況のまま、見かけの上で働き続けるという選択をしてしまいがちなのです。


たとえば排水溝が詰まってしまったとき、詰まってもう流れていかないのに、水を引き続き出しっぱなしにしていたら、掃除しようにもどんどん水位があがってしまってかえって詰まりを取る作業がもっとやりにくくなってしまうかもしれません。この例えが妥当かどうかわかりませんが、なんとなくそんなイメージ。


「土日祝日は、働かされている人が休まされる日のことである」


これは、『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本に五味太郎さんが書いていたことを、うろ覚えで私が再現したものです。その言葉に出会ったとき、私は働けてもいないし、休めてもいなかったのだと、なんだか悔しい気持ちになりました。


年末だとかお正月だとかが、下手な鉄砲持ちの私の射程にも入ってきたこの頃で


お読みいただき、ありがとうございました。