多重人格シェア

自分の傾向、性格、とりがちな姿勢がある。それを自覚する自分がいる。それについて考える自分がいる。


私は自分を、同じことを飽きもせず続けられるほうだと思っている。でもそれは、敏感に多くのことに反応するのをしんどく思う経験を経てつくられた人格かもしれない。


私が飽きもせずに続けていられることのひとつに音楽がある。演奏や歌唱の活動だ。これは、自分の過敏さがしんどくて造られた仮面とはあまり関係がないように思う。と書いたところで、いや待てよと思う。その、過敏のしんどさを原動力にした仕業という気もする。ありがちだが、恋心に由来する不安や焦燥、愛憎の感情は「歌」に化けやすい。「恋」に疲弊すると、他のことも「歌」のテーマになりもするが。疲弊しては別の畑にいき、それを拾って音楽にする。そんなことを私は繰り返している。


私がかつて熱中していたのにやらなくなってしまったものってなんだろう。釣りか。コンピューターゲームか。絵を描くのも好きだった。でもそれらは、機会さえあればまたやりたいと思っている。わざわざその機会を自分にあまりつくってやらなくなってしまったというだけだ。


こうやって毎日、文ともいえないような拙い文を書くのは嫌ではない。筋肉トレーニングのようなものと思って始めてみたら、思った以上に自分に合っていたのか、結構続いているらしい。


作文によって、やらなくなってしまったことを思い出すことがある。やらなくなってしまったこともぜんぶ、私は諦め悪くいつまでも心の中に持っているようだ。なんの偶然か、そうした引き出しの奥にあるものに再び触れるのに都合のよい機会がたまに訪れる。文を書き、考えることでその動機が生まれることもある。物理的にそれらと関連の深い場所や道具のそばに自分の体が近づいただけ、という場合もある。それくらいのことで、再びそうしたものに触れ、「やらなくなってしまった自分」という殻を破ることがある。その偶然を意図的に起こしたければ、自分の体を物理的にそうしたもののそばに持っていってやれば良い。例えが悪いが、男女が同じ部屋で一晩を過ごせば間違いが起こる可能性が高くなる。そうした結果を望まないのであれば、その逆を自分に設定するだけだ。こうあるべきと思う姿、それに自分が重なりやすい状況を作為的に創出すればいい。


偉そうに言っておきながら、私にはそれが実践できていない部分が多い。だからこそ、それを指摘する人格が生まれるのだろう。ある状況を主観している者の判断と、客観している者の判断は異なる場合がある。複数の人格による判断の中からより望みに近いものを選べれば、人生を有利に運べるだろう。自分やその人間関係を見回したとき、いくつもの人格が見つかる人生は豊かだと思う。


お読みいただき、ありがとうございました。