スタートラインに差があるのか

天才っているもんだなぁとついつい思ってしまうんですよ。「ああ、あの人は天才だかんね。仕方ないね。オレと違くても、オレが恥ずかしいのでも弱いのでも小さいのでも卑しいのでもないよ。あの人は特別。だから、オレは今のままで大丈夫。」なんて考えて、自分のこれまでのおこないを省みることを棚にあげてしまいがちです。


でも、その天才(と、私がいいがちな人)が言うのです。「努力でここまで来た」みたようなことを。つまり、私にはその努力が足りないのです。その人が天才だから、私がその人と対等なところに立てないのではないのです。その人が生まれながらに私よりもすごいのではないのです。生まれてから、自分でよいしょうんしょと歩いていったに違いないのです。歩くのは、私にだって同様にできるはずだし、許されてもいるはずなのです。それでついた差を「天才だから」で済ますなんて、なんてああ、恥ずかしいと思うのです。


「たくさん歩いた人」の中には、その努力を努力とも思わない人もいる、みたような話もしばしば聞きます。夢中になって楽しんでいるうちに、いえ、楽しくて夢中になっているうちに、どんどん歩いていってしまって、結果としてすごく遠いところへ、ほとんど似たようなところまで来る人がいない境地まで行ってしまうのです。瞬間移動や空中浮遊が使える特別な能力者などではないのです。ただ、みんなが出来るようなやり方で、つまり間断なく道を歩いていくだけというやり方で、その境地に至ったに違いないのです。時空に穴があって、ひとっとびしてしまうなんてこともないはずです。


ただ、ひとつひとつの「ここまでやるか?」ということを「ええ、やるとも」と着実にやっていったというだけなのでしょう。私がつい「ここまでやるか?」なんて立ち止まり、自問しちゃって悩んじゃっている間に、黙々とやっているのでしょう。私は、悩みがちで迷いがちなのです。それ以前に、悩みや迷いから目を背けがちです。逃避に時間をまずこってり費やして、それからやっとこさ悩んだり迷ったりしたかと思えばまたそこでたっぷりと時間を使い込むのです。「たくさん歩いた人」をモデルにした「ペースキーパー」は、もう、とうに見えなくなっている。


「あゆみ」がさまざまな尊敬する人を持つことは、私が「あゆむ」ときの目安が増えることでもあると思います。彼らのいずれも、天才なんかじゃないよと思い直します。


お読みいただき、ありがとうございました。