電機工作と歌

ある発明品ができたとして、それが商品となって受け入れられて広く普及して、誰もが当たり前のようにそれを使うようになったとしても、その発明品を自分で製作するところからやってみるという人がたくさん現われるかといったらそうではないと思います。もちろん、開発や製造や制作を学ぶその道の人が、経験を積むためにコピーにチャレンジすることはあるかもしれませんが、広く一般は、その発明品を「ただ、使う側」でしょう。たとえば、USBフラッシュメモリーの製作をためしに自分でやってみるという人は、いないとは言いませんが、多くもないでしょう。ほとんどが、使うだけの人に違いありません。私もその一人ですし。


歌という発明品は、多くの人がその再現にチャレンジできます。たぶん、USBフラッシュメモリーの製作をイチから自分でやってみる! というのよりは、歌を口ずさむことはだいぶ簡単に思えます。まぁ、その歌のバッキングトラックの製作、つまりカラオケに含まれているすべての楽器やパートの演奏の再現から全部自分でやってみる、録音やミックスやマスターも含めてとなると、広く一般が挑戦するにはだいぶハードルが上がって、それこそUSBフラッシュメモリーをイチから自分で作ってみるみたいなことに匹敵するハードルの高さになるのかもしれませんが(私は電気ものの工作の経験が乏しいので、例えに出しておきながらUSBメモリの工作がどれくらい難しくてどれくらい簡単なことなのか分かりませんが)。


電気ものの回路を含んだ機器の工作に必要な最低限の工具ってどんなものがあるのでしょうか。ラジオペンチやドライバーくらいだったら多くの家庭にもありそうですが、それ以上にハンダごてだとか万力だとかもっともっと私の想像も及ばないようなものになっていくと、家庭にある可能性は低くなるのではないかと思います。


「声」って、ほとんど誰でも生まれながら持っているものですから、「歌」をやろうとなったとき、その声の抑揚や歌詞をざっくり把握しさえすれば容易に再現できます。もちろん、使用する音域が4オクターブにわたるとか、半音のさらに半分に分割した微妙な音程を要求するとかいうことになってくると、専門外の人にはむずかしい「歌」かもしれませんけれど。


例えがなんだかヘンテコになっちまいましたが、うーん、なんといいますか、「ちょっと電池ボックスを豆球につないでみる」も、「歌ってみる」も、どちらもそんなに難しいことではないはずなのに、どういうわけか、圧倒的に後者の「歌ってみる」のほうが、一般的なおこないに思えるのが不思議です。一般的に思えるなんていうとまどろっこしい。「誰もが、日常的に当たり前のようにやっていがち」といいますか自然なおこないだと思うのです。


糸を紡ぎながら歌う。綿を摘みながら歌う。羊を移動させながら歌う。「歌う」は、身体を動かしてほかのことをしながらでもできる。それって、強いなと思います。歌うことで、つらさや苦しさがまぎれる。それもあるでしょう。声を、発音を、「歌う」ために特別にコントロールする。その「特別なコントロール」は、あくまで歌うためにされる。「話すように歌う」「歌うように話す」といった例えもあるかもしれませんが、あくまで「歌う」は「話す」とは違います。「話す」ために使われる抑揚やリズム以上の特別な秩序が、「歌」には含まれてます。その秩序を顕現させるために、己の肉体を、日常生活の動作よりもちょっとだけ特別なコントロールでもって操ることになるのです。それによって、感情が高ぶったり、反対に落ち着いたりもする。不思議なもんですね。


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