心の豊かさは表層で培え

最近、いろんな人との交流が妙に楽しく感じるのです。これまでに他者と交流しなかったかといえばそうでもないのですが、そう感じるのはなぜでしょうか。


私は、つい潜りがちです。家にこもって、作曲やら作詞やら演奏の録音やらをやるのが好きで、それだけは16年くらい前、あるいはもっと前からずっと続けてきました。音楽を通して、自分と向き合うのです。少しでも暇をつくれるのなら、俺は独りになろうという姿勢を貫いてきたように思います。


ですが、なんだか最近は、人との交流が楽しいのです。自分のやりたい音楽をやりたいように進めるのに時間をあてがうのももちろん相変わらず大切に思っているのには違いありません。しかし、何か、これまでに関わってこなかった人たちや、ちょっとだけ関わって見知っていた人たちや、すでにたくさん関わったつもりでいた人たちが集まって何かやろうとする場だとかに顔を出すと、とても気持ちが救われるのです。自分の音楽のプロジェクトを進めるのもいいけれど、急いでいいことがある明確な理由でもなけりゃ、外に出て空気を吸って、陽光を浴びてご飯を食べて、人に会う。それもいいじゃない、むしろそのほうがいいじゃないと思うようになりました。ついつい、独りの世界に潜りがちになる。ほっておくと、そうなってしまいがちなのが私です。


昨日、何気なしにお昼ご飯にささっとパスタをつくりました。いつもなら、それをその場で家で食べます。ですが、昨日の私はわざわざそれを箱に詰めて、フォークとプラスティックの器とお茶を汲んだ水筒を持ち出して、自転車で出かけていって、わざわざ公園のベンチで食べたのです。そうしたら、気持ちがよかった。


家で独りで食べることが深く潜ること、お弁当を持ち出して外で食べることがそうでないこと、という明確な関連があるわけでもないのですが、なんだか、いつもの道理でいつも通りにしていたら、私は深く沈んでいってしまっていたかもしれません。人に会うようにする、何かの集いに顔を出すようにする、そういったことも、このことと関係があるような気がしています。


一つのことがらに腰を据えて、深く深く掘っていくことで達することが出来る領域の存在を否定するものではありません。そうする動機がある、そうする必要がある、その結果を欲している、その結果が自他の幸せにつながるというのならば、それは是とされるべきでしょう。ただ、深く沈んで、光も空気もなくなっていくのであれば、日当りのよさと循環する空気のあるところを泳ぎ回ることをもっと歓迎していい。ことに私についていえば、そうみたいです。


お読みいただき、ありがとうございました。