バグと藁かす

必要としている人のもとに、必要なものは集まりやすい。それを必要としている人は、なんとしてでもそれが必要だから、あちこちで「それはないか」「誰かもってないか」「譲ってくれないか」「売ってくれるのでもいい」「力を貸してほしい」とふれまわる。そうすると、その必要なものに関する情報があつまる。なんなら、その必要なもの自体が寄ってくる。自分が磁石にでもなったみたいに。


ひとつひとつは藁かすみたいな質量だとしても、それも百、千、万と桁ちがいに集まっていくと膨大になる。なんなら、集めた藁かすの塊につかまって浮かんで、海流に乗って行かれるかもしれない。ひとりでその量の藁かすを集めるのは大変で、集まる前に溺れてしまうかもしれないけれど、つながった人やものがそれぞれ枝分かれしてお互いに引き寄せ合えば、あっという間に藁かすコロニーの出来上がりである。お互いの藁かすを合わせて、またしばらく生きていかれるかもしれない。


本気で必要としていない人には、藁かすになんてなんの価値も感じられないだろう。そもそも探してもいないから、目に入らない。人間は、必要としていない情報を自動でスルーする。そのことによって身を守ってもいるのだけれど、そのことによって変化のチャンスを失ってもいる。


変化のチャンスを欲するなんて、バグみたいなものかもしれない。恒常性を保っているほうが、急激な変化にも動じずに生き残れる可能性が高いかも、とも思う。安泰を求めるのが生物の本能かもしれない。


ただ、そういう戦略をとるものが多ければこそ、バグでいるという戦略が、それらのすき間でのみ「生きる」かもしれない。多くの者がそうはできないだろう。そこまでのすき間はない。すき間が多勢になったら、それはすき間とは言わない。形成逆転である。バグには新たな文脈が書き加えられるだろう。まともなやつがおかしいということになる。みんなみんなバグってたら、かつての意味でバグってるのはまともなやつだ。


自分は変わらないでいるつもりでも、周囲の変化に取り残されていると、馴染んだり摩擦を受けたりするだろう。転がっても根を張っても、結局丸くなる。ダメージを受けて研磨されないのは、存在していないのと極力近い。


なぜか、ここにいようとするんだよな。


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