人間のまんま

やりたいことってなんだろう、すでにやっているような気もするし、いつも探しているような気もする。また今日もこれをやっているぜと思うこともあるし、これまでにこんなことやったことなかったのに試しにやってみたら楽しかったということに出会う日もある。その「お試し」がお試しでなくなって、また別の機会にも、日を改めても場所を改めてもそれをやっているようであれば、それは貴重な人生における貴重な出会いだったんだろうと思う。


私は演奏や歌唱をよくやる。これは、やっていて楽しい。やるのが楽しい。人間に生まれてよかったと思う、演奏や歌唱ができるから。そう思う。食べ物や着るものや暮らす箱やらにかかるお金を調達するのにかかる時間を差し引きしても、このことに割く時間をなんとか作れていることは幸せこの上ない。その日食うものがないというときに、果たして私は歌っていられるだろうか。自分一人ならまだしも、家族もおんなじように同じ危機にさらされているその時にも、やっぱり私はそうするだろうか?


楽器を鳴らして、声を発しているその時間の存在を、私は、食事や睡眠といった生活における必須のものに見立てることがある。これがあるから生きていけるとよく思う。それに似たようなことは、形はちがっても人それぞれあると思う。友達とのおしゃべりだという人もいれば、釣りやスポーツだという人もいれば、絵や文を書くことだという人もいるだろう。こうしたものを、「やらなくても死にはしないんだけど」なんて笑って言いながら、誰もがやっている。そう思う私の能天気さは、危機にさらされている人から見れば怒りや軽蔑の対象になるかもしれない。それは承知の上で、そう思う。それは幸せなことじゃないか。そうでない場合が必ずしも不幸というわけでもないけれど。


どうも、食べるとか眠るとかではない「おまんま」を持つのが、人間であるような気がしてならない。私がそのおまんまを否定したときいや、私の心中からそのおまんまの存在が消えた時、たぶん私はこの世にいない人間になっているだろう。かつて私だった動物、そのいち個体が相変わらずそこにあったとしても


お読みいただき、ありがとうございました。