感動アンプリファー

私の日々は、あんまり変わり映えしない。派手でもないし、そんなに見習うべきところがあるたいそうなものでもない。地味でチョボチョボで目立たず、似たようなことばかり繰り返している。


そんな日々を「いいんだよ、これでいいんだ」と支持すること、誉め称え賛辞することは、自己弁護のような気がしてしまう。他の人がそうやって讃えてくれるぶんにはいい。でも、自分で言ってたんじゃぁ、ときにその弁護が惨めな気持ちを生むことすらあるように思う。


気にし過ぎかもしれないけれど、これも私に備わった機能なんじゃないかと思う。私が変わり続けていくために備わった天性なのだ。おいしそうなものの匂いを嗅ぎ取る感覚を備えているのと似たようなことのひとつとして、私は自己弁護が過ぎたときに惨めさを感じるように出来ている。そうなのかもしれない、なんて仮説。


似たようなことを繰り返していると、ちょっとした変化に気がつきやすい。ちょっとした変化をおおごとのように感じる。感動する体質になれる。感動の増幅だ。ちっちゃな感情の波の信号を大きく増幅して、爆音をぶっぱなすアンプリファーだ。目をつぶるみたいに耳を塞ぐことはできないから、他の人の迷惑かもしれない。音量をもうちょう絞ろうか。深夜に爆音はいけない。早朝も遠慮しておこう。昼間でも、場所や機会を選ぶだろう。案外、無用の長物だと気付く。なんだよ。どこで爆発させたらいいんだ?おれの感情の波。ああ、なんだか惨めになってきた。(お、検知した)


変化したかと思えば、また同じ場所にもどってきてしまうことがある。でも、一昨日いた場所から昨日移動して、今日また戻ってきたのだとしても、一昨日と同じ場所にいるからといって一昨日のままの私だとはいえない。「見た目がなんだか同じに見える」だけで、実際はまったく違うということがいかにこの世にあふれているかの例である。地味すぎて伝わらない? なら、違う次元で見てほしい。きっとぜんぜん違うから。xyz軸には、時間軸が足りていない。5次元目、6次元目もあるだろう。想像がちょっとむずかしいけれど。私とて、達者な方でない。


なんて口がすべることも、昨日までの私にはきっとなかったことだ。いや、あったか? 忘却もまた、変化である。(おい)


お読みいただき、ありがとうございました。