S p a c e 2 0 2 0

人口が減る減ると言われている。なぜそう感じるかというと、そういうことを言う人やそういうことが書かれた資料を私が気にしているからである。労働力も減る減ると言われている。人が減るのであれば、「人」の中でその一部が「労働する人」なのだから、それは自然にそうなるものと理解できる。「人」の総数は減るけれど「労働する人」の数が保たれるという可能性は、正直ありえないと思って間違いない。私ごときが言う「間違いない」はあやしいものだが、私ごときに「間違いない」などと言われるのはそうとうやばい。「やばい」なんて言葉を持ち出されるくらいにやばいのだ。これは、やばいぞ。


向こうを見れば、先細りの未来? それは、観点のひとつでしかない。豊かさは? 価値や幸福の総量は? どうなる? どんなものを取り上げて、何を見出すかは、随時、未来を迎えながらやればいい。それが「生きる」ということ。で、目の前の現実はそれとしてある。かつて未来だったであろう今がある。今できることは、未来にできることとは違う。今できる、今しかできないことがある。


人間が手を割かなくてもできるようになったことが多い。そのことで新たに生まれたものごとも多い。その生み出し手の最先端に私がいるとは思えない。もっと要領がよく頭がきれて、聡明な人たちがそこにいる印象だ。私はフォロワーでしかない。ここで、遊んでいるだけだ。提示された遊び方に習っているに過ぎない。自分で創出した遊び方などではない。誰もが知っているような、ありふれた遊びのために手を動かしている。それは、あんまりうれしいことじゃない。そう思っている私がいるのも真実だ。それで、いろんな畑を見て回って、渡り歩いている。ささやかな抵抗だ。ささやかとはいえ、必死でもある。私なりに、いっしょうけんめい生きている。


年内はあと10日もない。今から焦って何ができる? それほどたくさんのことはできないだろう。それどころか、ほぼ何もできずに終わるかもしれない。それくらいに私はぼんやりしている。そう自覚している。その自覚をぶちこわし、拭い去り、「ぼんやりしていた私」なりに、ちょっとだけ変わるのに10日弱はじゅうぶんな時間かもしれない。激変はできない。けれど、穏やかにならば変われるだろう。私の片手ともう一方には指が5本ずつついている。指折りでの計算でも事足りる。残された「今年」は、それくらいの期間しかない。それ相応の期間である。


勝手ながら、ここ45年くらいの成績通知が突きつけられているような気がするこの頃だ。来年は今日の先にあって、地続きに歩いて行ける場所だけれど、これまでの地理条件とはいくぶん違った領域に差し掛かるような印象を抱いている。個人的な事情で、今のままではいられないという思いを私が抱いていて、それを動機にこれまでは起こさなかったような行動や言動をとり始めた。自分でそう思う。私の身の周りの人から見てもそうならば、私の認識と現実が少しではあるが近づいたのかもしれない。それは、かつてない距離である。その点で、2020年は私にとっていくぶん特別な、これまでにない「スペース」なのかもしれない。


お読みいただき、ありがとうございました。