しゃべるアメーバ

「お前、たいしたことねぇなぁ」を言ってくれる人は少ない。

私はよく、自分を小さき者のように言いがちだ。驕っているとか、自信過剰で周りが見えていないとか思われるのは恥だと思っているからだろう。で、実際に私が小さき者かどうか知らないが、たぶん小さき者と思って間違いないだろう。「たぶん」なんて言ってしまうあたりが、まだまだ恥ずかしい奴である。


自分で自分のことを小さく言うのは、保身とか予防線を張るとかのニュアンスで、よくやってしまう。他の人に自分のことを「小さく」言ってもらえることって、実はあまりない。そんな中で「小さく」言ってくれる人がいたら、むしろ信用できる気さえする。年を重ねるほどに、身の周りにそういう人って少なくなりがちなのではないかと思う。「お前、相変わらず小せぇなぁ!」と豪快に言い放ってもらえたら、爽やかな気分になれるかもしれない。


いつも「過小」に言うのもおかしいだろう。ほんとに小さいから「小さい」と言えば嘘はない。ほんとはそんなにすごいと思っていないのに「すごいですね!」なんて言い、さも敬服しているかのような態度を演じるのも実は結構恥ずかしいことかもしれない。媚びへつらいだとか、ごますりだとかは、するのも、されるのも、したりされたりしている人を見るのも、気持ちのいいものではない。


私はいっぱしにことをしたか

いっぱしのことをした人がよくしゃべるのは、聞く人がいるからかもしれない。そちらを向いて「聞く態度」を見せている人がいたら、そこがそのまま「しゃべる機会」になる。「あの人は何の人」という「何」の部分が認知されると、立ち止まってその人の方を向く人が増えるだろう。


私は「いっぱしのこと」が出来ている自覚がない。でも、私がしゃべるとき、その話を聞いてくれる人がいるとも感じている。周囲の人が、私にしゃべらせてくれているのかもしれない。一方で、私は人の話を聞くのが好きだ。そこに、「目の前の人は何の人か」なんてことはあまり関係がない気がする。むしろ、その人が何の分野について追求しているのか知らない方が、無垢になって最初の質問を投げかけやすいかもしれない。変に事前の知識があると、尻込みしてしまいがちだ。自分がその分野の有識者であるはずもないのに。「何も知らない人だろう」と思われることで、口を開いてもらえることもある。逆に、「お前にこんな話をしてもわからないだろう」とシャッターを閉ざされることももちろんあるだろう。


私はよくしゃべるほうか?

私は楽器を携えて人前に立って、歌うことがある。そんな活動を十数年続けている。「エムシー(MC)」と言われる「しゃべり」に当初は苦手意識があったが、最近はそうでもない。むしろそうすることを好んでいる自分がいる。考えていることを開陳するのは気持ちのよいことである。開陳できる時空がないことにはかなわないから、贅沢であるとも思う。その機会が実現するのに力を割いてくれるあらゆる人のおかげである。


ラーメン屋さんと常連

寡黙に見える人でも、聞き手が違えばよくしゃべる。あるラーメン屋さんの店主が、常連さん風のお客としゃべっているのを見たことがある。私には、決してそんなに口を開いてくれることはなかった店主だった。「あの人、あんなにしゃべるんだ」なんて心の中で思ったものだ。聞き手がいいのかもしれない。私はその店主にとっては「聞き手未満」だったのだろう。その時はそうだったかもしれない。機会を改めれば、私もその聞き手になれないとも限らない。「しゃべらせるのがうまい人」は、しゃべるのがうまい人を兼ねている気もする。あのラーメン屋さんに行ったのはもう5年も10年も前の話だから、今の私が行ったら、少しは口を開いてもらえるだろうか。その前に、今もあの店がそこにあれば、であるが。


においのありか

人の関係があるところに、伝達がある。伝達があるところに、言葉がある。もちろん、伝達に用いれるのは言葉だけじゃない。態度や仕草もある。ちょっと動物的なアプローチをとるのならば、「においを出す」とかもあるかもしれない。パソコンや本からは多くの場合「意図のある匂い」はしないから、人間があまりそこに重きを置いていないのがわかる。いや、パソコンや本を扱う人が多いというのはそもそも間違いかもしれない。単に、技術的な問題かもしれないし。そんなもんのないところにあるものこそが、この世の人間関係のほとんどだろうなとも思う。



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