与え合いのプラットフォーム

反響をもらえることがある

ここにあるような文章を、自分のサイトやらSNSやらで公開するという活動をやり始めて2年半以上が経過しました。こんな私の文でも、読んで、ネット上でリアクションを示してくれたり、直接会ったときに「読んだよ(どうだったよ)」といった反響をいただけることがあります。


読まれなくても書いてしまっている 筋トレとしての反復

読まれなくても、書いてしまっている自分がいます。いえ、厳密には、「絶対に誰かには読んでほしい」のですが、それはあくまで「読んでくれる人」あってのことですので、強いることは出来ません。「100%、読んでくれる人のために書いている文章」ならば、誰にも読んでもらえないことはあってはならないのかもしれませんが、私の場合は、自分への戒めといいますか、訓練のためといいますか、とにかく「書くこと」を続け、本当に誰かに何かを伝えようというときにそれを余すことなく伝えられる「筋力」を養っておこうというのが1番の目的ですので、つい「誰に向けて、何を伝えるのか」をぼやかしがちになってしまう悪癖を自覚しています。ひとつ、「100%読んでくれる誰かのため」という境界の存在を妄信するのは避けたいというのはあるのですが。「私自身が、自分の書いた文章の読み手である」という事実にもたれかかるのも社会悪な気がしますが、そこには認めてやるべき部分もあると思っています。


読んでもらえて得られた反響は、書いたから生まれた

そんな悪癖や社会悪を含みうる私の文章であっても、とにかく誰かに読んでもらえる可能性がわずかでもある場所に置くことで、反響を得られることがあります。それはまぎれもなく、私が「自分のために書いた」とか「筋トレだ」とか言っていようがいまいが、私が書いたから生まれた事実です。


自分だけが知っている事実の存在を支えるのは自分だけ

私が、何かを思ったとします。それを、誰にも伝えなかった場合、その「思いの存在」という事実を支えているのは、「私のみ」です。このまま私が墓場までこの思いを持ち込めば、事実も消失します。「その問題を理解しているか」は、「その問題に答えられる」ことのみによって確認しうるわけであって、「理解していないし、答えられない」のと、「頭の中では理解しているけれど答えない(もしくはアウトプットの方法がなくて答えられない)」は、残念ながら現象としては同一のものとカウントせざるを得ないのです。


そんな偉そうなことを言っておいて、私が強い信念にしたがって強度のある行動や言動を日々あらわしているかは、「棚に上げまくり」なのですけれど



とにかく、ここまで読んでくれてありがとうございます。あなたに支えられています。