旅立ちの日

私は東京出身、東京在住です。西東京市という、23区の西にある街に住んでいます。毎年そこで、お正月を家族で過ごしています。もう、生まれてずっと。その過ごし方をしなかった年は、33年ちょっとの私の人生で、一度もありません。例年、元日は、都内の高齢者施設で暮らしている二組の老夫婦、つまり私の祖父母たちですが、かれらの元を巡って、夕方までには西東京市内の実家に落ち着いて親族みんなであつまって食事をするというのが恒例でした。ですが、おととしの元旦を迎えたのちの3月、4人いた祖父母のうち最後の1人であった母方の祖母が旅立ちましたから、2019年の元旦は「巡るべき祖父母のもと」がなかったので、ゆっくりしたものでした。今年、2020年の元旦、つまり今日も、おそらくゆっくりしたものです。ゆっくり実家にあつまって、ゆっくり食事してお開きになるだけ。


2019年の元旦を迎えた日中はゆっくりしたものでしたが、その夜には、ふたりめを妊娠中だった妻に陣痛が来て、日付を越えて夜中には次男が誕生したのでした。今日の食事がお開きになって眠りにつく頃には、うちの次男は1歳になります。昨年の元旦の時点では、次男はまだいなかったのかぁと思うと、信じられない気持ちです。もうずっと、次男のいる生活をしてきたような気がしています。もちろん、妻のお腹の中にはそれよりも前からいたのですけれどね。


その次男を妻が妊娠中のお話です。夏が過ぎて秋を迎えたころ、妻が切迫早産になり、安静を要することになりました。病院に泊まっている妻のもとを訪れ、見舞ったあと、妻のいない自宅で過ごした日があったのを思い出します。それからわりとすぐに、安静が保てるのなら自宅で過ごしていいということになり、退院しました。妻はとにかく「寝る」、横になっていることが求められました。疲れて休みたいといいながら毎日を走り続ける、そんな思いをして生活している人がどこかにいたり、私や妻自身がそんな人自身であることもこれまでにあったでしょうに、「横になる」「寝て過ごす」ことを求められるなんて、いかに特殊な状況だったかと思います。それはそれで、あれもこれもできず、つらいものだろうと今思い出して反芻しています。


そんなことがあって、まだ、やっと1年やそこらなのだなと思うと、人生って長いなと思います。いつもは短い短いと思っているのに、矛盾していて、なんだかヘンな気持ちです。いや、毎日があっという間に過ぎて行って、時間ってホントにないなと強く思い続けているにも関わらず、この毎日って、まだ始まってからそんなにたいして長い時間が経っているわけでもないのですね。


私が平均寿命そこそこまで生きて老衰で死ぬとしたら、そんな日々をずっと長く繰り返してきた気がする一方で、なんだ、せいぜい7080年ぽっちか、なんて思うのかもしれません。そんな、旅立ちの日を想像します。考えうる死に方、そのあまりにたくさんの可能性のうちひとつに過ぎないのですけれど。


お読みいただき、ありがとうございました。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。