ダーウィンのピアノ

ピアニストって、すごい! って思いがちだ。確かに、すごい。あんなにたくさんある、こまかいひとつひとつのどの鍵盤がどんな音程なのかをそれぞれ把握していて、意図した通りの音を奏でている。強弱やニュアンスまでもコントロールしている。リズムだって、狙い通りにしている。すごいや、なかなかこれは、進化した機械にだってできそうにない。


でも、進化した機械にだってできそうにないかもしれないけれど、じゃぁ、もっと機械が進化したら? 機械が、私の想像も及ばないくらいに進化したらどうだろう。ピアニストがやっているくらいの演奏を、機械がこなしてしまうかもしれない。


なんてことを言ってみたのには、わけがある。ふと思ったのだ。ピアニストってすごい! ピアニストがすごい! って思いがちだけれど、いやいや、その活躍を成立させているそもそものインターフェイス、「ピアノ」がすごいんじゃないのか? なんてことを。


いやいや、ピアノはただのインターフェイスであって、人間の意思を表現するための器にすぎないのだから、自主的な「ヒト」の存在がなければなんの役にも立たないだろう、「ピアノがすごい」なんて、ナンセンスだと言われれば、正論だと思う。私は返す言葉もない。で終わってもいいのだけれど、それはそうとして、やっぱりこの「意思の踊り場」たるインターフェイスって、よく考えられていてすごいと思うのだ。


そう、「インターフェイスがすごい」なんて言うから正論に潰されてしまう。すごいのは、これを考えた人だ。ここまでこの器を進化させ、洗練させ、磨き抜いて、今日の姿かたちにしてきた人間が、やっぱりすごい。


ピアノの鍵盤の並びに深く関わるのが12半音階だ。1オクターブを12の段階に分けたこのルール、規律? 秩序。これがあるから、ピアノの鍵盤はあの並びになっている。12段階じゃなくて、もっと大雑把に分けたり細かく分けたりしたら、1オクターブの鍵盤の数は増えたり減ったりすることになる。その秩序にしたがって生み出されるもののバリエーションは、今とは違ったものになるかもしれない。


その秩序やら、その秩序に乗せた表現の器であるピアノのデザインは、現状、かなりいい感じになっている。これを完成されていると言わずに、何があてはまろうか。(いや、まぁ、いろいろあてはまるだろうけれど)


ピアニストってすごいけれど、どのピアニストも「ピアノ」という「共通の踊り場の上」だということがふと気になったのだ。そんなことから、「ピアニストってすごいけど、ピアノというインターフェイスがそもそもすごい」なんてことを思ったのだ。


「進化した機械」よりも「もっと進化した機械」は、果たして「ピアノ」みたいな完成されたインターフェイスを生み出しうるだろうか? 私の想像の及ばないところまで進化した機械なら、そんなこともありうるのだろうか。そうなったときには、機械と人間の区別はだいぶあいまいになる。その頃に私が生きていれば、私にはその違いがわからないかもしれない。機械のほうが人間を人工的に生み出す、なんてことがあるかもしれない。「人工的」じゃなくて、「機工的」か? 人間という、すでにあるものを生み出すんじゃなくて、もっと別の新たな知的生命体を生み出すかもしれない。いや、「知的生命体」なんて既存の言葉じゃ表現しきれない存在が闊歩する時代が来るかもしれない。どこかの平行世界になら、すでにあるだろうか? 今この言語を私が用いていること自体が、滑稽に思えてきた。及ばない世界が、そこにある。



お読みいただき、ありがとうございました。



というのは、今日の日記を書くためにこれといって新たに知識や情報を仕入れることなく、日常で私が思ったことを種にそのまま書いてみたものです。でも、日々、私は、ここにあるいつもの日記を書く際に、まず、あるところに毎日更新されている情報を仕入れてから、それについて思ったことや、それを受けてのリアクションを書いていました。その順序はいつも、「入れてから、出す」というものです。でも今日はちょっと、その順序を逆にしてみます。今日のほんとうのテーマは、ピアノやピアニストの話ではなく、そのもう少し先といいますか、むしろ根本にある提案そう、「入れてから出す」ではなく、「出してから入れる」をもっと重んじてみては? というものだからです。


そう、まずは出さなきゃね、です。「準備が足りない、知識が足りない」その「自分が至らない者である」という気持ちが潰えないのは、わかります。他でもない、私がそうだからです。でも、だからこそ、「足ること」を待っていたんじゃ、何も始められないし、生まれない。だって、いつまでも、どこまでいっても、「足る」わきゃぁないのですから。


たとえば、小説を書いてみたいなら、書けばいい。「何が小説なのか」がわからないから、それを知ってからじゃないと書けない? なんて言っていたら、いつになったら小説を知り尽くせるのか? ほんとうにそうだと思います。だって、「何が小説か」「どんなものを、小説といえるのか」「小説の定義は何?」なんてことは、言葉の意味が時代とともにうつろうのと同じように、常に変化しつづけているはずですから。


そんなもんは、後回しでいい。なんだったら、「小説じゃないもの」を書いてみてからでいい。それで、生み出してみたものが、現代でいう「小説」とどこがどう違うのかを考察してみればいい。それが分かった上で、「現代でいう小説」に近づきたいというのであれば、具体的になった問題点、相違点をただしていけばいい。そのとき、その人が書いた「小説ではない何か」が、ひょっとしたら、「現代でいう小説とは何か」を変える力を持っているかもしれない。


そうやって、フォーマットは進化していく。「ピアノ」が今日の姿かたちになったみたいに。


小説だって、ポップやロックやらの音楽だって、その定義は日々揺れ動いている。生み出されたものに引っ張られて、振り回されている。決して、フォーマットやジャンルやインターフェイスのかたちに、あなたのほうが振り回されてはいけないというのを、自分に強く言い聞かせ続けよう。



今度こそほんとに、お読みいただきありがとうございました。