結婚と家 〜生計をひとつにする関係〜

・結婚と願望

10代や20代そこらのとき、結婚は私にとって現実的なものに思えませんでした。「いつかはしたい」ものごとのひとつでした。自分の力で稼げるようになったときに、恋愛対象の人と幸せになるゴールのようなもの、それが結婚だと思っていました。でも、現実の私にとっての結婚は、かつて思っていたそれとはまったく違います。何もかもが「途中」という感じです。独り立ちなんか全然している気がしないままに結婚しましたし、恋愛感情の高まりを形式化したというよりは、ただただ単に「これからがんばって一緒にやっていくことにしよう」という意思がそれによって決まったきかっけに過ぎないように思います。そう、私はおそらく結婚する前は、結婚というものについて考える際、「気持ち偏重」でした。結婚って、「気持ち」でするもんだと思っていたのです。でも、パートナーや家族への感情は日々変化しますから、「恋愛」や「親愛」のような分類に固定してとどめておくことは不可能です。今では、結婚は感情の外側にあるものだという気さえします。


結婚って、みんないつかはするもんだ、という価値観が、かつては支配的だったかもしれません。でも、今は、「個人の自由」という風潮も感じます。その考え方を持つ人のことも、尊重される社会になってきているかなという気がします。もちろん、世代や、地域や、何かしらの極点において、未だに古い考え方にあてはめようとする慣性がないとは思いません。未だにそういう価値観の適用を強いようとしてくるはたらきかけがあって、そのことで不快な思いをしている人もいるのだろうなと思います。結婚を望まない人のことも共感されうるし、望む人のことも共感されうる。「いろいろ」が認められるべき、という風潮は、より「自由」だなと思います。だから、かつてより、より多くの考え方や価値観への「共感の絶対量」は、増えたんじゃないかなと思っています。いえ、思いたい私の「願望」に過ぎないのかもしれませんが


・「家」はどこにある?

土地や家を持って、そこで食べ物をつくって、それを食べて生きる。その生き方は、場所の制約が大きいものです。それとはべつのことをして、他の人がつくったものを自分のした何かと引き換えに分けてもらって、それを食べて生きる。現代では、圧倒的に後者の生き方をしている人が多いでしょう。ここ数日を思い返して、自分が育てたり採集してきた食材を口にしたよという人は、きっと少ないのじゃないかと思います。つまり、家や土地という制約の中で生きていない人が、大多数のはずです。「家」って、社会のしくみにおける、形式的な単位になんじゃないかと。もちろん、そうとも言い切れない部分がいくらでもあることを思いながら、ですが。


・生計をひとつにする関係

例えば、子どもを持つ場合、生まれた子どもは当分独力では生きていけませんから、「まとまる」必要があります。この人は、この人を助けるその関係がいちばん明瞭な例が、親子という単位なのかなと思います。その「明瞭な関係」の有無が、子どもを育てる場合、子どもの生存に重要な意味をもちます。この子の親は誰々である、という関係を、形式的に認知し確実に把握できる単位それが親子であり、その存立をより保障してくれうる単位が、家なのかなと思います。


一緒に住んでいるだけとか、同棲しているだけとかでは、やっぱり家というには足らない気がします。どこかで聞き覚えのあることばをあてがえば、「生計を同一にする事実」でしょうか。血や肉になるものを分け合っている関係。共同体。みんなでひとつ。その単位。それが、「家」なのだと。


戸籍上で結婚しなくとも、事実上の「家」というのがあるかもしれません。結婚は、やっぱり究極をいえば、戸籍の話なのかなと思います。その事実を他者に宣言し、認知してもらって、「確固たる事実」たらしめる手段のひとつ、といったところでしょうか。他の手段が現状ではなかなかむずかしいという社会であればあるほど、いつまでたっても「結婚」に幻想はつきまとうのでは


家長が鏡餅を切り開き、家族に分け与えるのが「お年玉」のはじまりだとか。



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