ひどい雨、記憶に残るあの試合。

運の要素を排して公平にやる「ゲーム」がおもしろいとは限りませんよね。たとえばサッカーのリーグ戦なんかで、雨が降った試合と、降らなかった試合どちらも含まれていたとします。雨が降らないほうが、選手たちがより実力を発揮できて、より得点が動くかもしれません。ではサッカーのリーグ戦は屋内競技場に限るようにしようとなるかといえば、そうでもなさそうです。それは、雨が降ることと得点が動きにくくなることの間に、はっきりと定義できる相関関係が認められないことだけが理由かというと、そうでもなさそうです。


競うもの同士が、「同じ条件」のもとで勝負できるのであれば、全体的な条件がそのときによってさまざまであっても差し支えないとする向きがあるように思えます。たとえば、風が一時的に、一方のチームに有利になりかねないような吹き方をする瞬間もあるかもしれません。で、同じ試合のなかで、さっきは一方に有利な吹き方をしたから、もう一方のチームにも同じくらいのメリットがある程度に風が吹いてくれるとは限りません。そう考えると不公平かもしれませんが、でも不公平じゃない。風が有利なように吹く可能性は、どちらのチームにもあったとみなす考え方がたぶん、主なのでしょう。


そのスポーツの歴史をさぐったときに、あとから書き加えられたことがあるかもしれません。たとえば、競技(ゲーム)を生み出して、プレイしているうちに、「陣地によって、有利不利が生じうるみたい」というようなことがわかってきます。で、「前半と後半で、両軍の陣地を入れ替えるようにしよう」というようなルールが生まれて、加えられていくのです。それって、天候だとかによる、人間がコントロールしきれない条件を排除しようとするものでなくて、なるべくそういった影響が「公平になるように楽しもう」とするものだと思います。


また、どちらのチームのだれが、試合を迎えるまでに病気になったり怪我をしたりするかもわかりません。そういったリスクを承知して、不利になるようなことは少なく、有利になるようなことは少しでも多くなるように、行動を選択するのが選手のつとめであるといえそうです。試合は、開催当日よりもずっと前から始まっているなんてことを言っただれかがすでにいそうですけれど、ほんとうにそうだと思います。


そう、あらかじめ「始まっている」のですけれども、でもやはり、当日を迎えて試合を決行してみないことには、結果はわからない。「いかに、結果をわからなくさせる要素を含ませるか」がゲームであるともいえそうです。その要素がなければ、そもそも「ゲーム」だとか「競技」だとかにならない。


ほんとうのほんとうの意味で、「結果をわからなくさせる要素」を完璧に排除するのは不可能でしょうから、この世のあらゆることは、そもそもスポーツであり、競技であり、ゲームであるなんて言い方をしてみたくなります。尻込みしないで楽しんだほうがよさそうです。


お読みいただき、ありがとうございました。