人生をそれなりに素敵なパーティにする有効な手法

私は好きで音楽活動をしています。自主的なものですので、ビジネス的にどうかというところでいえばまるでなっていません。じぶんのための活動ですので、それを社会のために活かせているかと言われれば疑問に思えるふしばかり。自分がやらないと誰もやってくれないような「自分のための音楽」をただやっています。どうやら私の考えだとか嗜好だとか価値観は、あんまり大勢の人と一致するものでない場合が多いので、だれかが鳴らしてくれたものよりも、自分が自分だけのために鳴らす音楽が私には必要みたいなのです。そんな音楽は、私以外の誰ひとり鳴らしてはくれません。だから、そんな音楽が結果的に社会的に有用なものになる要素は、決して多いとはいえないのです。そこが、私のエゴを通させてもらっている感覚につながっていて、常に私が感じている、「世の中に生かしてもらっている申し訳なさ」みたいなものの根っこです。


ただ、私のやっている音楽に関わる自主活動のすべてが、ただ社会のおまんまを食いつぶすだけの悪にはなりえないのも事実です。たとえば、私は自主的な音楽のためにみがいた演奏や歌唱の技術を、地域市民のあつまるお祭りやフェスみたいな場面に持って行って、童謡だとかポップスだとかを演じてみんなで過ごす時間をつくるのに一役買うことができます。その時間は、私が、自分自身のために、音楽というかたちをとって過ごしてきた時間がなければ生じ得なかったものです。そこについていえば、多少の社会への還元にはなっているなと思うふしがあります。


じぶんのやりたいことを、やりたいようにやる。この時間を、いえ、時空みたいなものを、私は失いたくないと思うし、持ち続けていくべきだと考えています。それには、先程いったように確かにエゴだとかも含まれているのですけれど、他の人のために「一役買える」部分も、どちらかが悪目立ちすることのないくらいの割合で含まれていると思うのです。


やりたいことをやりたいようにやるべきだ。その一方で、この活動が「悪めだち」しない程度に、他の活動もやって、「立ってあるく」ことが、私のいまの生き方のように思っています。


正直、「やりたいことをやりたいようにやる」以外のことって、あまり面白くない。どちらかといえば苦しいです。いえ、実は「やりたいことをやりたいようにやる」ことこそ、かえって苦痛をともなうのですけれどで、この「やりたいようにやる」を活かして、他の人の願うことを満たすようなかたちを探るという可能性があります。


はじめから「やりたくないけど、求められるかたちのものをやろう」とするのは、つまらなすぎて苦痛すぎて、そもそも動き出せない危険があります。仮に動き出せたとしても、もう、終始つまらない。「苦痛っぱなし」です。もちろん、最後には、ちょっとくらい「苦しかったけど終わってすっとした」くらいの達成感があるかもしれませんが、「私が私のためにする、いいコト」がそこには生きていません。それは、やっぱりおもしろくない。悔しいし。


ですから、私が最近有効だと思っているのは、「まずはやりたいようにやりたいことをやって、その成果を、あとから、他の人が求める形に寄せて行く」という手法です。「やりたいようにやった」のに、その成果物の形を部分的に崩したり作り替えたりすることは、ある種の禁じ手のようなものと感じるかもしれません。この「作り替えた部分」があんまり大きくなりすぎて、ほとんど跡形もないような様相になってくると、また苦しさや悔しさが支配的になってくるかもしれません。ですが、全体の半分未満くらいまでならば、譲り、求められるかたちのために働くのも、この世で「いい感じ」に生きる術として有効なのではないかと思うのです。


実は「やりたいことをやりたいようにやる」がすべて、というのを押し通すのも、それに伴う摩擦があまりに大きくてかえって苦痛ですし、他にかける迷惑が大きすぎるかもしれません。ですから、最低半分は保つけれど、あとは寄せて行ったり、あえてちょっと悔しいかんじのする言葉をつかっていえば「迎合する」働きのために力を割いたりするのも、この世で生きるという一連の事件をそれなりに素敵なパーティにする有効な手法なんじゃないかと思っているこの頃です。


「まずは、好きにやる。で、寄せて行け」です。



お読みいただき、ありがとうございました。