無限にグレイ

「多様性」、頻繁に話題に登場する単語になりましたね。一方で、ファッション的に「多様性」を扱うことは、流行への媚びのようなもの感じさせる原因にもなりかねません。


いろんな生き方があっていいという考えや価値観がより浸透することは、いろんな人に生きやすい社会づくりに貢献するだろうと、ひとまずは思います。いっぽうで、そうした考えや価値観を吟味することなく、ただ「少数派を認めるのが時流なのだ」と鵜呑みにしたのでは、なんだか矛盾してしまいます。「いろんな考えがあっていい、生き方もそれぞれでいい」というところで始まったはずなのに、「いろんな考えがあって、生き方もそれぞれでいい」一辺倒になってしまったら、それってその考えや価値観が支配的ってことなんじゃないのかとふと思います。


いえ、もちろん、私自身、「誰かと同じようにしないさい」と必ずいつも強いられることは望みませんから、「それぞれでいい」というのを認めますし、認めてほしいことだと思っています。問題なのは、「吟味の省略」でしょうかね。「それ、自分で考えてそうしてる?」というところです。考え続けることを放棄して、ただ言われた通りにするのでは、あるいは「誰かが言ってそうなこと」に合わせるのでは、それって「生き方いろいろ」なんかじゃなくない? などと思うのです。


「こういう感じにしとけば、とりあえず波風立たなそう」という方につい「反応」してしまいます。それは、仕方のないことかもしれません。その一瞬に、吟味したりあらゆる可能性について考えを巡らせるのは難しいでしょうから。


一方で、「それはおかしい」というのを直感して、それを隠さずに反応を示すことは、限られた人のみに許されることなんかじゃないはず、というのも思います。


「それはおかしい」とか、反対に「間違いなく素晴らしい!」なんてわかりやすい直感が生まれることばかりではないのが現実のはずです。「え?」っと、一瞬、どうしていいのかわからないこと。参照するべき資料が自分の中に見当たらないこと。思考が飛んで真っ白になってしまうことってあるかもしれません。そうすると、不安になります。それで、他の人はこれにどう反応するんだろう、なんてことを「調べ始めがち」です。その調べ方というのも、安直に「ネットやSNSで検索」なんてやり方をとりがちです。それで、無難に「前例」あるいは「多勢」に見えそうな反応をとりあえず選んで示しておくという循環です。「無難」の永久機関か。なんてね。


「わからない」「判断(反応)しかねる」という態度は、もっと肯定されていいのでは? なんてことも思います。「わからない」ことをそのまま示すべきなのに、「どちらか」「なんらか」を示さねばならないという強迫をひとりでに感じて、じゅうぶんな吟味なく手近な「反応のテンプレ」を選んでしまうことって、多いのではないかと思います。まずは、それをやめればいい。


白か黒かの態度を、過度に求める側の問題ともいえそうです。「いつでも」「直ちに」「はっきりとした」反応を示せ、ということを求め過ぎなんじゃないかと。


「はっきりしねぇなぁ」とやきもきするのが「求める」側の気持ちかもしれませんが、それって、「求めるフリ」を誰かに求められて無自覚にものごとを急いているのでは? と。白と黒の間を考えてみてほしいですと、私は自分に言っている。そこは、それぞれに必要なだけの時間をつかっていいところなんじゃないかと思います。


「無難」の先に、実は「難」があるのでは。いたずらに「難」を先送りにすると、あとでより大きくなった「難」に対峙するだけ。それにぶつかってくじかれるのは、自分にほかならないでしょう。


出会ったそのときにごまかさずに、「わからない」から逃げない。そんな提案をしておきます。


お読みいただき、ありがとうございました。