生き写し

結婚して妻と住んでいます。子も二人います。


私たちの住んでいるところから徒歩5分未満程度のところに、私の実家があります。そこに、私の両親が住んでいます。


近いので、私たち家族と私の両親は頻繁に会う機会があります。私たち夫婦の子どもの世話のことでも、頻繁に力を借りています。ありがたいことです。


私は、父の子です。ですから、いろんなことを写し取ったのでしょう。私の仕草や言葉づかい、態度なんかを受けて、妻に「お義父さんみたい」「(義父)そっくり」なんてことを、よく言われます。近年、なおさらよく言われるようになったように思います。特に、子どもが生まれてからでしょうかね。


父を、母を、これまでに触れ合う機会のあったあらゆる人の「人となり」を、私は写しとってきたわけです。それが、いまの「私」なのでしょう。


で、私の息子たちも、私や、妻や、私の父や母や義父や義母、触れ合うあらゆる人たちの「人となり」を写しとるわけです。つまり、まねするのですね。こういう状況に立ち会った場合は、このような態度や言動を示すのだというのを大人から見習う。その経験の積み重ねが、赤子を、幼児を、ひとりの人間にしていくのでしょう。


子どもが印象的な言動をあらわしてみせると「これ、誰が言ったんだろうね」などと、つい「出元」を探そうとしがちなのが、私たち夫婦のこの頃の癖です。この癖は、当分続くんだろうな。ことばのみでなく、態度でも仕草でもおなじです。これは誰の真似だろう?  なんて、ついつい探しがち。


自分を写しとってもらうことで、自分に似た部分を持った誰かがこの世に生じることになります。そうやって、写しあいをやりながら、伝播していくのでしょう。自分が発信元になったことが、どこかから返ってくるなんてめぐりあいも、長く生きていくうちにあるかもわかりませんね。


いろんな他人(親などの近親者も含めて)の複雑な混ざりあいによってその人がつくられるがゆえに、まったく同じバランスの人格を持った人はどこにもいない。一卵性双生児だって性格に違いがあらわれるし、顔だって微妙に違ってきさえするのですから、後天的な「写しとり」によって形成されるのがその人となりなのでしょう。


お読みいただき、ありがとうございました。