ヤドカリ

家というのは、外の世界と、「自分のための場所」を隔てる仕切りの役目を有していると思います。これがないと、いったいどこからどこまでが「自分(のスペース)」なのかがだいぶわかりにくくなります。「いれもの」として、自分の体を「家」に見立てることもできそうですし、本当にありのままの意味での「家」もあります。床が、壁が、屋根が、私を守り、保つための役割を全うしてくれます。


年をとると、いろんなことが受け入れられるようになることを思います。若い頃には、賛成しかねることがあった。つっぱねてしまうような主義主張があった。認められないものとして、反抗することがあった。それが、だんだん、加齢とともに少なくなっていくことがあると思います。


自分が年を重ね、経験を増やすことで、より多くのものに共感し、理解を示すことができるようになると思います。たとえば、「親」という立場を未経験の自分にはなかった理解が、「親」を経験することで身に付くことがあるように。自分が子どもで、「親」を未経験なときには、親の言うことなすことひとつひとつが許せず、「なにくそ」「したがってなるものか」なんて思いがちだったかもしれません。反発するエネルギーも持ち合わせていたでしょう。精神的にも肉体的にも、ある意味充実していたのかもしれません。


経験を増やして、いろんな立場や身分を(部分的にでも)知るほどに、「それも、ま。いいか」と思えるようになります。「わかるわかる」「そうなるよね」なんて共感しがちです。反発するための精神的、肉体的なエネルギーが余っていないということかもしれません。かつては、拒絶したり拒んだりしてきたものまで、するっと見通して、受け入れられてしまう。自分の範囲が広がったといえるかもしれません。そこまで、自分のものごととして受容できるようになった。より遠くまで、より広く、自分に影響を与えるものとして認められるようになりえるのです。


他者と自分を隔てる仕切りは、なければないほどに良いともかぎりません。そこは、堅持すべきところがもちろんあるでしょう。なんでもかんでもあけっぴろげにすることが、むしろ他の人にとっての不快を呼びさますこともあるでしょう。奨励されるべき「見せないための努力、共有しないための努力」というものもあるような気がします。


特別な信条があって、自分と他者の境界を極力あいまいにするという方針も、あるかもしれません。それも「自由」の範囲として認めざるをえないかもしれません。でも、その信条を保つことも「筋力」みたいなものによっていて、それを保つための特別な努力なしには、崩れてしまうことでしょう。ただただ抗わない、その末に行き着くのは、滅びです。そうならないためのあらゆる営みを有するものこそが、生命であり、それこそが生者の定義なのかもしれません。生きるのをあきらめるほどの特別な信条は、今の私にはありません。


という「家」に、今の私は住んでいます。


お読みいただき、ありがとうございました。