本があると、まっさきに奥付を見ちゃう。

本が好きです。いえ、好きだという言葉で片付けてしまっているのかもしれません。ほんとうは、そんなに単純じゃない理由から私は、本を手に取っているのかもしれません。


本を手に取ると、私はまっさきに、いちばん後ろのページにある「奥付」を見てしまいます。いつ頃、誰が(なんという出版社が)発行したものなのかが気になるのです。また、さらにその前のページあたりに、何々という雑誌にいつからいつ頃まで掲載した内容を単行本化しましたなんてことが書いてあったり、それをいついつ文庫化したものですなんてさらに書いてあったりもします。


そうした、「前提」を回収したがり屋さんなようなのです、私は。「文脈」から置いてけぼりにされたままに、何かおもしろそうなことをどんどんやられるのは、悔しいじゃないですか。先程の例でいえば、本の奥付をみて、誰がいつ頃発行したものか、なんてのを知るだけでも、発行当時にどんな情勢だったかを思い出し、ああ、あのときの社会に対してある問題を見出し、出版社が、著者が、その問題への答えを突きつけたのが何々という雑誌の連載であって、それが狙った通りか狙わずにかどっちか知らないが読者に広く受け入れられるなりなんなりしてめでたく単行本化してなんなら文庫にまでなったのだな、なんて長々と一連のことが奥付周辺を見た一瞬の私の頭の中に閃光するのです。


本がぽつんとただそこにあるのでは、まだ、その本が誰によって、なんのために作られたものなのかがわからない。それを気持ちが悪いと思って、まず最初に明かそうとするおこないが「本の奥付を真っ先にみる」というもので、それが私の癖になっているようなのです。


その本は、多くの場合、何か「意図があって」つくられたものでしょう。・社会を見まわすと、こんな問題があるよ ・その問題、こんな見地でとらえて考えてみないかい? ・で、こういうふうに行動しようよ ・したら、ほら、最初の問題が解決したじゃない? ・で、そこから新たに見えてきたことって何?(たとえばこんなこともあるかもね。)あなたはどう思った? なんてことを、一冊一冊の本たちが持っているに違いありません。


もちろん、その限りでない本もいっぱいあると思います。そういう本に、私は一冊でも多く出会いたいとも思っています。「本」でなくとも良いのです。先ほどの例でのかたちが、そのフォーマットのひとつが、本だというだけ。どんなかたちであっても、ひとつひとつの行動がそうだし、たとえばイベントの企画運営だとかでも良いですし、起業だとか創業だとかって、そういったことのおおもとにあるものだと思います。ボランティアとかもあるでしょう。


解決すべき課題だとか問題を見据えて、アクションを起こすという順番について思います。ある「A」という現実を問題視している人だとか、「A」に苦しめられている人が現実にどこどこにどれくらい存在している。だから、その人たちの問題を解決する目的で、私はアクション(リアクション?)「Z」を起こします! という順番での「生き方のプロセス」、それはそれで素晴らしいと思います。


一方で、呼吸をするようにすでに自分がやっていることが、とらえようによっては、現象「A」がはらむ問題の解決に一役買っているんじゃない? なんてことはいくらでも出てくると思います。私は、そういうおこないをこそ愛したい。


「愛したい」とする対象がなんなのか、それは人それぞれだし、どんな存在をその対象とするのかは自由です。その設定に、他者が文句を言う筋合いはありません。もちろん、他の人の権利を阻むものであったり、著しく一方的におとしめるようなことがあってはなりませんけれど。


《現象「A」の解決に資するということを直感したうえで呼吸をするようにすでに何かをやっている》ということがあると思います。器用になんでもかんでも、そのアクションの先にあるカタルシスを、あらゆる人にわかってもらえるように「語れる人」ばかりではないはずです。で、日々、みんなもう、実はすでにいろいろのことをやっている。


「さまざまな設定をまず最初に見出すこと」そのものも、個々の道楽みたいなものかもしれません。強いられることでもないですが、場合によってはそのプロセスこそが人生を明るくもするのでしょう。愛せばいいのです。おのれのままに。


お読みいただき、ありがとうございました。