本質を伝えることば

ひとこと多いのと少ないの、どちらがキドリか。

 つい、私はかっこつけちゃいます。といいますのも、「みなまでいわずともわかるだろう?」という姿勢をとりがちなのです。つまり、省ける言葉は省きがちなのです。


 そのことによって、「伝わったかもしれないこと」を、どんどん「伝わりにくく」してしまっているのかもしれません。それって、ほんとは「省いちゃいけないことば」を省いちゃっているんじゃないのかよ、私よ? と自分に問うと、そう。そうかもしれないのです。ってか、そおなのよー! と声を大にして自分に言いたい。いえ、他の人に迷惑だから、控えめで


 例えば、「優しいんだね」ということばひとつあったとします。これだけじゃ、「は? 何が?」って感じるのではないでしょうか。そりゃそうです、何も前提を説明していないのですから。でも事実、私はおそらく、これくらい前提の説明の不足したものいいをしがちなのです、きっと。で、たとえば、この「優しいんだね」の真実をちょっと明かしますと、「優しいんだね。相手が小さい子どもだからって、そんなことまでしてあげるなんて。でも僕は何もかもしてあげることが必ずしも本人のためになるとは思わないけどな。そこは、手を貸さずに見守るので良いのでは?」とかいう含みのあることばだったりするのです。この長々しく嫌みたっぷりの文字列のうち、実際に発せられたことばは「優しいんだね」のみだけだったりするのです。たとえばのつくり話ですし、これでも状況を説明しきっていないので、説明になっているか怪しいものですけれど。


 省略は、仮に本質が「批判」だとか、そんなに価値のあるものでなくて単に「嫌味」程度のものを「さらっと表明してみせる術」にもなるかもしれません。で、別のことだと、たとえば「愛情表現」もわかりにくくさせます。


 そんなものいいをしていては、つまり「なんも言ってないのといっしょ」なのですだって、「伝わってない」のですものねむしろ、何も伝える力を持たない雑言を世の中に増やしているだけかもしれません。「伝わらないことば」は、ほとんどの場合、無視されて終わりです。ことばが、たとえば「問題のある不動産」みたいに、解決を避けることでいつまでもそこにあるものとは違うがために、それで済んでしまいがちです。もちろん、重なって巨大な山になるくらいの紙の原稿用紙いっぱいの雑言とかになれば別かもしれませんれど。


 伝えるほどの価値をもっていない言葉しか発し得ない自分に、そもそも問題があるのかもしれません。黙っているほうが、価値が高いのでは? とさえ思います。さて、結局、ひとことでも多いのが「キドリ(気取り)」なのか、むしろ黙って「ことば少な」なほうがキドリなのか? といえば場面によってはどっちもキドリになりうるように思います。そう、下手したら、「言っても言わなくてもどっちにしろキドリ」になるのです!


 だので、「気取らずにちゃんと伝えるべきことを伝えよう」ということになります。必要なことばはきちんと含ませるべきだし、本質を見えにくくすることはあえて言わないように。正直で、素直であること。なんだ、シンプルじゃんよ!


 で、「ていねいであること」はなんにせよ有効ですよね。


 お読みいただき、ありがとうございました。