なにかと実際、そうでもない。

今日、ちょっと住んでいる地域を離れて遠くに来ています。ちょっとといいますのも300キロメートルくらいです。東京から、福島に滞在中です。


いつもならこの文を書くのにパソコンを使うのですが、旅に持ち歩くには重いので置いてきました。スマートフォンでこれを書いています。入力速度面で、パソコンに劣ります。


パソコンの入力は、だんだん慣れていくにつれて速くなりました。それに同調して、不思議と「しゃべる速度」も速くなったように思います。文書を書くことに慣れると、話すことも習熟するのかもしれません。


音楽の話ですが、楽譜を書くとか、音を聴きとるとか、譜面を読んで演奏として出力(歌唱)する能力は、いずれかが高まるとほかのものも同調して高まるといわれています。言語の読み書き・しゃべりと一緒かもしれませんね。


文を書くことに慣れたら話すのも速くなったといいましたが、これは単に「最高速度」についての話です。日によっては、うまく話せないで、あーとかえーとかうーとか、語頭に詰まったり語尾を引きずったりすることが今でもよくあります。最高速度が引き上げられたとしても、平均速度にしたら、たいして変わっていないのかも?最低速度の下限も同時に更新していたとしたら、より極端で振れ幅の大きい人間になっただけかもしれません。


ところで、「速読」みたいなことが私はできません。どうしても、どうやっても、文面がそこにあったら、口を動かさずに音読することのみによって「読む」ことができます。声帯を震わせることなく、心の中で音読するのです。これが「黙読」というものかしらん。


速読って、目で文面を塊として意味を認知する、みたいなことらしいです。私の理解はそんな感じ。文面というほどじゃなく、一行10文字くらいの単位だったら、その理屈はなんとなく理解できます。パッと10文字程度の文字列が一瞬だけ「サブリミナル宣伝(?)」みたいに垣間見えたとき、その文字列を音読する暇は確かに私にはありませんでしたが、確かに私にも、「何が書いてあったかがわかる」という認知が起こり得ます。文字列を見ることができたのは一瞬だったとしても、認知は可能という理屈がこのことからわかります。でも、「面」「段落」「数行単位」となると、もう無理。結局、「無音の音読」になってしまいます。それによってのみ読むしかなくなるのです。


ちなみに、私は作詞作曲をしてその曲の演奏をライブハウスで発表するといった活動をしているのですが、「曲書くのはやいよね」と知り合いに言われたことがあります。ですが、気が向いたときしか書きませんし、その速度も遅いというのが自己評価です。


曲の発案から完成までには、かなり「練り」ます。発案したけど、練り不足のままお蔵入りとなるものも多くて、たとえば多くのパートを含んで録音に残されるトラックは発案されたもののうち1割りにも満たない、といった様相です。「発案」という最初の過程を満たしただけで「一曲書いた」とみなすのならば「書くのが速い」という評価もありえるかもしれませんが、私としては複数のパートを含ませて録音に残すことを完成形とする場合が多いので、自己評価としてはやはり「曲なんかスラスラはできない」というものになり、そこに外からざっくり見た場合とのミスマッチがあるかもしれません。


ぜんぜん話は変わりますが、私は実際には体重が落ちていないのに「やせた?」としょっちゅう言われます。顔色がわるいのかしら……  ちょっとヘコみます。


「受ける印象や記憶」と「現実、事実」は多くの場合、不一致である。なんて仮説を立ててみる。


お読みいただき、ありがとうございました。