生産と消費の距離

私の住んでいる地域に、私のことを知っている人はどれくらいいるでしょうか。もっといえば、私の得意なことや好きなこと、これまでにやってきたことを知っている人がどれだけいるでしょうか。ほとんどいないと言っていいでしょう。その数、その比率は、圧倒的に「知らない」で占められていると思います。で、それは私に限ったことじゃない。ほとんどの人が、お互いのことをよく知らないで、ある地域にまとまって住んでいたりします。で、てんでばらばら、それぞれの場所へいって別々のことをして、家に寝に帰ってくるのです。


そのことが悪だとはいいません。けれど、お互いを知ることで、お互いがお互いにとっての富になる、という可能性があるのではないでしょうか。互恵関係が生まれる可能性が、こんなに近くにあるなんてと驚くかもしれません。驚くべき関係が生まれる可能性が、自分の身の周りに眠っているかもしれないのです。


個人の嗜好や能力、才能、価値観やものの考え方、思考そのもの、経験。それらが生かされずに眠っている状態、活用されていない状態、それはまるで「在庫」です。


生きれば生きるほどに、在庫って生まれてしまうのじゃないか? いえ、そんなことはないはずなのです。みんな、どこかで、その力をふるっている。エネルギーを落として帰ってきている。それが、わざわざ「遠く」までいってなされている場合が多いのが、ある地域に「在庫」をもたらしがちな原因なのかもしれません。自分で選んだ場所で、力をふるう、エネルギーを落としてくる。それは、素晴らしいことだと思いますし、自由だと思います。


自分が生きるために必要な量の仕事を、直接自分のためにやっていた時代、たとえば、自由自足の時代だったならば、ものが余るなんてことは基本的にないでしょう。自分が消費するぶんのものを自分で調達してくるのですから。蓄えたとしても、自分自身があとで消費するための蓄えですから、管理はシンプルです。ところが、それが、うんとうんと複雑な社会になってくると、もはや、誰がいつどこでどうやって生産したり蓄えたり流通させたりしたものが自分の手元や家の冷蔵庫や戸棚の数々にやってきたのかなんてわからない、なんて状態になりがちです。例として食べ物のことについて言いましたが、食品以外のものや「コト」、情報や時間といったような一見フォルムのわかりにくいものについても、同じようなことが言えるでしょう。


手を尽くして、ちゃんと消費される量のいいものを生産して提供すれば、そうモノもコトも「余らない」と思います。そこには、「ボロ儲け」だとか「ひとり勝ち」はないように思います。どこかから魔法のように湧いて出てくる銭なんてない。互恵関係を結ぶ相手の顔を見据えて「生産」すなわち、「産む・生きる」活動をすれば、そうやたらめったら「歪み」が出てくることはないように思うのです。


これくらいの歪みが「どこか」に生まれるのはしょうがない。それでやってしまったことが、実は自分に直接返ってくるのさえわかりづらい。それくらい複雑になってしまっているのでは? なんて、抽象的に言ってしまってすでに私自身よく見えていないのですけれど


お読みいただき、ありがとうございました。