スクリュードライバー

「うまくやれよ」以外にあるだろうか。上手に立ち回り、情に身を任せず、知恵をつかって、的確に判断しなさい。そんな多くのことをひと言でいうなら、ほかにどんなことばが値するか。とらえようによっては、「がんばれ」だって「幸運(健闘)を祈る」だって、もっと無責任に響くかもしれないがひょっとしたら「神のご加護を」といったことばにだって、似たようなニュアンスを見出せるかもしれない。いや、それはだいぶ違うよと思うかもしれないけれど、極端な話、「死んじまえ」にだって、場面によっては信頼の意や愛情がこもることだってあるのだから。


言われるまでもないことばだという気もする。でも、それじゃあ、人間どうせ死ぬんだから何もする必要はないと言っているようなものかもしれない。だから、「うまくやれよ」と声をかけてやることは、まさにそれがその人の生き方を表しているおこないだと思う。


言われなくても、最善を尽くすだろう。あるいは、最善にしかならない。最低最悪に思える結果や事態に出くわすこともあるかもしれないが、なるようにしかならないのだから、それにただ「最善」という名前を授けただけである。それでもあえて「最悪」「最低」という名前を授けたい、そうしたいこだわりがあるというのならば、勝手にすればいい。少し冷たく思えるかもしれないけれど、その程度のことでもある。


ただ、ものの呼び方ひとつで、見え方が変わって、人生が楽にも苦しくもなる、そういうことってあるように思う。勘違いを減らせる可能性もある。だから、名前には力がある。「名前」を「ことば」と読み替えてもいい。


ことばは道具である。その側面がある。ことばをかけて、「使う」ことができる。道具としてのことばを使って、何かの目的を遂行できるかもしれないし、一歩前進するかもしれない。素手では回せないねじが、ドライバーがあることによって回せるようになるのと同じようなことだ。そもそも、そのねじがしまったりゆるんだりすることで、何を達成しようとしているのか。目的の先には、さらなる目的がある場合が多いとも思う。


ことばをかけてやることで、そのことばの一般的な意味を伝えているのではない。そういう場合がある。むしろ、言外にある姿勢を示そうとしていることがほとんどなのではないかとさえ思う。どんなことばを使うにせよ、「応援している」という態度を示している。そう読み取れる機会は案外多い。そう、人生とは態度そのものだとも思う。態度ひとつが、世界を変える。


お読みいただき、ありがとうございました。