相互フォローの幻想

ネットにつながったアプリ。それを示すアイコンが、自分のスマートフォンの画面上にならんでいます。それを、一日のうちに何度もクリックする私がいます。こんなに頻繁に見る必要もないでしょうに。「なんのためにそれをするのか」なんて、ほとんどの場合、見失っています。ただ、習慣としての動作をしてしまっているのにすぎない。目的を見失い、時間を失っているのかもしれません。まぁ、一瞬開いて通知と12スクロールを見るくらいですから、それが積もって毎日何時間にもなっている、なんてことは決してないのですけれど。


この習慣をやめると、滅ぶものはなにか? それは「常にチェックしている私」でしょうか。それくらいのもの、その程度のものです。ネットにつながったアプリを見張っていることで、世界をチェックできているなんて思うのは思い込みはなはだしいと思います。SNSなんかをやっているのは、世界人口の割合としてわずかなものです(「登録者数」でなく、ある程度の頻度で使い続けている数あるいは、活用されている時間のつぎはぎ、集合といいますか)。好きもののあつまり、いえ、もの好きの集まり、といったところでしょうか。「モンスター大学のいち矮小サークルのメンバー同士」…SNSをやっている人なんて、それくらいの規模なのだと思っていいかもしれません。


それで、「その世界における自分」を中心にして幸福にやっていけるという人はそれでもちろんかまわないと思います。ただ、それで世界にまたがって立ち回っているみたいな気になるのは、盲目かもしれないと思います。見えていないところにほかの人がいるし、ぜんぜん違った光景があるに違いないと思います。


「そこ」に目を向けるということは、「そこ以外」から目を背けるということです。「いや、視界の外にも随時注意しているよ」とおっしゃるかもしれませんけれど。そうでしたら、それは何よりです。


私がいまここでこうしてキーボードを叩いている。これをやめにして、飼い犬を連れて外に繰り出して行くことで参加できる世界がそこにあるでしょう。そのときその瞬間は、ネットの世界から目を背けることになるでしょう、どうしても。アプリ見ながら犬の散歩できるよ、という人もおられるかもしれませんが、私には難しそうです。100ある注意力を50—50に振り分けることならできるかもしれません。100—100は無理ですね。2人で協力すればなし得るかもしれません。そのときは、2人でひとつの存在ということになりそうです。3人、4人、と人数が増えて行けば、組織、団体、集団として1つの存在です。定義のしかた次第で、1人がいくつもの集団にまたがって含まれるということはありえます。むしろ、そのほうが自然かとも思います。


いつもいつも「特定の世界のみ」を1人で見張っているわけではないのです。1人で完結するというのは幻想に違いないと、自分に言って結びとします。


お読みいただき、ありがとうございました。