P×P'

あれが健康にいいぞと聞けば、そればかり食べる。そんなことをしがちである。そのことによって、バランスを欠く。欠いてから、気付く。で、バランスを取り直す。それで、「健康に良いと聞いたあれ」を一旦忘れる。「いったん」のつもりが、永遠に忘れる。それでバランスが戻ったのならばそれでいい。元のバランスの方が良好ならば、だけど。


ここで、忘れたのが「いったん」で、落ち着きを取り戻したのちにまた取り入れ始めるとか、あるいは「忘れる」ことはしないで、最初から「ほどほどに取り入れるコントロール」をして、今までよりも「良好なバランス」を獲得できたとしたら、それは名プロデューサーの仕事といえる。


みんな、自分の指針を持っている。自分自身が専属のプロデューサーみたいなものだ。誰に何を言われなくとも、これが機能して、その人の行動が生じる。行動の連なりが、その蓄積が、その人となりだ。まわりから見る「その人」でもあるし、「外見上の」という狭義の意味を排しての「その人」である。


自分で自分のコントロールを握るのがセルフプロデュースというものであるのに対して、他者にはたらきかける存在がある。これが、ふだん通りの意味のプロデューサーだろう。「ぷろでゅーす」の対象を自分に向けるという概念を提案した誰かがいたおかげで、こんな論理が立つ。


プロデューサーは、複数いると、その指針が異なる場合がある。ぴったり合致するほうが不自然だ。ぶつかりが生じる場合、同時に複数の指針を満たせなくなる。すると、いずれかの指針を採らなければならなくなる。それ以外を捨てることになる。


自分のコントロールは、捨てられない。外部プロデューサーの指針と対立したとき、いくつかの可能性が考えられる。ひとつに、外部P(プロデューサー)を突っぱねることだ。対立して、外部Pの意見を変えさせる。そうならない場合、ぶつかり合い続けるか、決別して距離を置く。ぶつかり合い続けるというのは、距離をとれない事情がある場合だろう。


ぶつかり合いもしんどいし、距離を置くこともできない場合、セルフPの指針を変化させることもできる。外部Pの方針に従うのだ。結果的に、これは当初の「つっぱね」を反故にしたのと同じだ。でも、「こういうことがあって自分の指針とぶつかったが、自分の指針を押し通すのがむずかしい事情を認めたがために、外部の指針を受け入れ、従うことにした」というのと、何も闘わせることなく、右から左へ受け流すように行動するのではプロセスに違いがある。後者には主体性がなく思える。それを装うのも、ある種の世渡りのテクニックかもしれない。そのほうが、案外しんどいことは少なくて済むようにも思う。


「眺める」には、適正な距離が要る。そのために費やす時間もいる。「その光景の一部に自分がなっている・その渦中にある状態」では、眺めるのは難しい。適切な距離と時間をもうけること。プロデューサーの仕事のほとんどはこれに尽きるのではないかと思う。


日々いろんな情報が飛び込むけれど、そのひとつひとつと適正な距離と時間を置かなければならない。あなたにも私にも、優秀な「P」がついているはずだ。


お読みいただき、ありがとうございました。