頭の中のピカピカ

「これは真実の話である」という口上ではじまる物語はありそうなものだけれど、「これはすべて、つくり話である」と前置きして始まる物語を私は見たことがない。


ところで、漫画本なんかを手に取って開き始めると、最初の方のページに「この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません」などとある光景はよく知っている。あれは、「物語の外」なのである。現実の存在である、おそらく「出版社」というような人たちが、実際に本を手に取っている存在としての「私」に言い訳のギフトをしているのだ。


頭の中ではいろんなことが起きている。おそらくそれは、私に限った話ではないだろう。みんなの頭の中で、現実離れしたいろんなことが乱れ起こっているにちがいない。


ドラマや映画や漫画などといった、つくり話がある。あれらも、ひとつの「頭の中」なのだろう。作品ひとつひとつが、「あたま」なのだ。そのあたまは、人間の頭の中とは違って、固定されている。くるくると巻き付けられたフィルムの中にだったり、磁気の変化を記録したテープや円盤の中にだったり、ゼロとイチのひしめく集積回路? のようなものの中にだったり、そうしたもの(記録媒体)の中に固定されている。


「固定されたあたま」としての作品たちは、私の目や耳をとおして私の頭の中に届けられる際に、まったくべつの物語に変質する。『スター・ウォーズ』でも『男はつらいよ』でも、私が鑑賞すれば私だけの固有の物語になってしまう。もちろん、固定された物語はなお、記録媒体の中にはあり続ける。私に届けられても消失することはない。


私の頭の中でピカピカと起こる信号のフラッシュメント。それもまた現実である。その信号が伝える内容が、偽りの恋でも殺人でも、おんなじである。「私の頭の中の信号ピカピカ」は紛れもない事実であり現実だ。それに、フィクションもドキュメンタリーもない。分別それ自体に罪はない。分類して区別するのはかまわない。


たとえば「私とあなたがお茶をして、その日の天気について話した」という事実をつくったとしても、それはそれぞれの頭の中の信号ピカピカに置き換えられる。それぞれに真実ができあがる。「私とあなたのお茶と、その日の天気の話」という固定された記録があったら、それはそれだ。多くの場合、固定された記録は存在しない。一人ひとりが、頭の中の信号ピカピカを持って帰るのみだ。中には、置いて帰る人もいるかもしれない。


頭の中のピカピカがきっかけになって、人間どうしの恋とか殺し合いだとかが生まれもする。反対に、恋とか殺し合いだとかがまずあって、それが頭の中のピカピカに置き換えられることもある。曖昧になりがちな区別を助けてくれる存在が、記録物だ。記録の内容は、事実である場合もあるし、もとから頭の中のピカピカという場合もある。頭の中のピカピカをそのまま出力して記録したり再生したりする術があるのかどうか知らないが、記録されながら随時でっちあげられるのがピカピカでもある。


ピカピカがチカチカして、クラクラしてきます。


お読みいただき、ありがとうございました。