マイキング

たとえば、恋人のなんでもかんでもを知りたいと思うか? 仮にその恋人が以前つきあっていた人がいたとして、その人との「ろまんす」や「いいはなし」をなんでもかんでも知ることは、むしろ私のこころやからだに悪影響をもたらすような気がしてならない。その瞬間に恋人としての目の前にいて、触れられるような距離にいて親密そうに話しているのはじぶんだったとしても、なぜだか健康を害するのにじゅうぶんなくらいな危うい気分になってしまいかねない。


なんでもかんでもを知ることが、いいこととは限らない。ある人にとってのいいことは、また別のある人にとってのいいこととは限らない。むしろ、悪いことである可能性もある。情報も、薬みたいなものかもしれない。その人の状態がいかにあるかによっても、おんなじ物質がもたらす作用、その結果が違ってくる。情報が薬だというのではないけれど、そういう側面も認めてやれそうだ。


偽の薬、効果が定かでない薬、確かな実験や検証・しかるべきプロセスを経てコストをかけて磨かれたのではない薬。そういったものが、医師や薬剤師みたいに専門的で確かな知識や技術を持ったわけではない人たち、あまたのふつうの人たち(ふつうという言い方がはらむ問題をここではあえて無視しよう)によってみだりに処方されているようなものである。それが、いまの「おくすり事情」であると思う。


確かな情報だとか、根拠や出典のはっきりした情報だとか、もっといえば、そのときに特にじぶんにとって必要な情報を、あまたのそれ以外の情報がノイズとなってマスクする。そんな様相がみてとれる。特定の情報をほしがらなければそんなことは起きないかもしれない。目をつぶるみたいにして、耳を塞ぐことはできないけれど、それでも聞かないように「集中を外す」ことはできるかもしれない。


目に入っているのに、なんにも、見ていないということがよくある。耳に入っているのに、情報がなんにも頭の中に残っていないということもよくある。ノイズが多いと、ノイズから注意を外す技術か長けるのだろうか。集中すれば、ノイズの中からきちんと欲しい情報を拾い出すことができる。けれど、それには技術や経験が要るかもしれない。ノイズに惑わされて失敗したり、振り回されて疲弊したりした経験が、その技術を確かなものにするのかもしれない。


若い人は、そうした技術が未熟であることも多いだろう。情報に敏感だともいえる。よい面も悪い面も否めない。情報に鈍い老人にも、やっぱりよい面と悪い面を認められるだろう。実際に、年を取ると耳が遠くなりがちなことと直接関係があるのだろうか。あるかもしれない。


お読みいただき、ありがとうございました。