へたでいい⇔うまくてわるい

自分のパフォーマンスしたことについて、技術のことをほめられると、無性に悔しい気持ちになることがあります。それってやっぱり、技術のことは本来あとからついてくるものだという認識を私が深層に抱いているからなのかもしれません。「そこをほめてほしいわけじゃないんだよなぁ」に始まり、「きっと、好みじゃなかったから、そこしかほめられなかったんだろうな」なんてところまで深読みしがちです。その人がそこまで思って言ったのではなかったかもしれません。でも、その人のこころが「好きだ」と叫ばずにはおれないようなパフォーマンスを私がしたのならば、まず間違いなく、真っ先に技術のことを挙げてほめるようなことはしないはずだと思います。それを認めると、私は「ああ。今日は負けだったな」なんて自省を始めるのです。


技術は、それそのものの本来のおもしろさの伝達をきちんと手伝うものです。「手伝うもの」なんて、実際、なくてもなんとかなるのです。技術がないための情動の表出がかえって、観るものの心に刺さったりします。といいますか、「なくともなんとかなる」なんてのは、技術屋サイドの高慢な態度かもしれません、そもそも。


心の動いた経験というのは、現れたい、生まれたいという欲求を持った、それぞれがひとつの能動体なのじゃないかと思います。たとえば、失恋したつらさを味わうこと。愛と幸福の波間に浮かぶ心の揺れ。争いや諍いの渦中の激情や怒り。あるいは、心が動かない自分への悲哀や諦めの観念。頼りにしていたものの喪失による空虚。さまざまなものが、「初期衝動」になります。ロック音楽を語るうえで頻繁に使われがちなこの言葉。自分も安易に用いるのにはやや抵抗感がありますが、確かに一理あるなとも思います。


半周まわって、「技術のみ」で本来中心にいるはずのテーマの不在を語るという表現もあるかもしれません。あるいは、これまで安易にテーマとしてきがちだったことへの批判、反抗、つまりそれこそがときにロックとして成立しうるのではないかとさえ思います。それは、「想い」の存在こそが表現の多数派になりがちだから、そのこと自体が痛切な嘆きになるからだと私は考えます。そういう表現も、ときにはありかもしれません。もちろん、「心の動き」に端を発する多数の表現の存在に依存した反抗ですから、「あってもいい」というくらいの、異端の存在だということはみとめた上で、ですけれど。


そう、やっぱり、そうした「心の動き」の存在を前提に語られるのが技術です。技術の存在は、まず生まれようとするものの存在を担保にしているのです。


「下手でもいい」なんてことばは、そもそも高慢のしろものなのではないか。赤子の産声に巧いだの下手だの言う人はいないでしょう。その誕生は、お慶びごとですぜ。


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