「過去にならない未来」は実現する

たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なんかは私も見ました。それ以外にもいろいろな作品で描かれた「未来」があると思います。それらは、実現したものもあれば実現していないものもあります。


たとえば、離れたところにいる人どうしが、通信する。それも、すごく小さな端末をつかって。これは、実現して、広く普及したと思います。「腕時計式の通信端末」を私はつかっていませんが、スマートフォンくらいなら、みっちり私の生活に食い込んできました。「おそうじロボット」を知人のおうちにおじゃますると、よく見かけるようになりましたが、これは、我が家にはまだいません。今我が家にある掃除機は、コードレスの棒状のやつです。あくまで、ヒトが自分の手で扱って動かすシロモノです。「宇宙旅行」は実現しているようですが、広く普及したレジャーとはまったくいえないようです。(実現したといっても、地球上にある観光地みたいな土地が宇宙にもあってソコに出かけて行って優雅に過ごすというような感じではなく、単に「地球の外側」と定義された高度の空間まで行って、短い時間をその乗り物の中で過ごしてそのまま戻って来るのみというようなもののようですし)


映画や漫画など、後になっても見返すことのできるかたちに「想像の未来」を残してくれた人たちがいるおかげで、その「未来」とされる程度の時間的な隔たりの先が実際にやってきたとき、見比べることができます。で、これは可笑しいねだとか、これは本当になったね! だとか言い合えるのですね。


いちいち記録にされていませんが、人々のなんでもないおしゃべりの中でなら、たとえば、「2020年の時点で空飛ぶ車なんか普及しているはずがない」と言い当てた人もいるのじゃないでしょうかね。どこにもそんな記録が見当たらないというだけで(探せば、ある??)。「こうなるかもよ」「なったらいいね、おもしろいね」は「かたち」に残されがちですが、そういったことの「否定」を「かたち」に残すことまでは、なかなか労力が割かれることがないのかもしれません。(労力の行使の対象、それはすなわち愛の対象、か。「愛」を費やす対象として、なかなか「否定」は選ばれないのかもしれません。というか、「否定」と「愛」は相容れない概念なのか?)


私も自分や自分の身の周りの未来について「こうなったらいいな」もいろいろ想像しますし、「でもそうはならないだろうな」も同時に思います。今在る現実はすべて、誰かしらがいつの瞬間かに一瞬くらいは想像済みのことで構成されているのかも、なんてふうにも思います。「想像可能なことはすべて実現可能」みたいなことばを聞いたことがあります。いつどこでだれが言ったことばだったか不明ですが、今ふと思い出して勝手に共感しています。


すべての「現在」も「未来」も、例外なく「過去」になる。いや、その「例外」が訪れることもあるのかな? だって今、私が想像しましたから、実現するのかなー、と。


お読みいただき、ありがとうございました。