落ちても死なない綱渡り

正解であろう方角がまったくわからない状態で、間違いをおかすと深刻なリスクが伴う場合、「そっちじゃない」と言われたときに、私にできることって、「止まること」のみなんじゃないかと想像します。へたに動いて、また「違う」ひどければ「ばかやろう」と言われる、咎められることが怖くて、何も出来なくなってしまうのじゃないかと思います。


こどもがやるあれやこれやのうち、そのおこないが、「ただちにその子や、他の誰かの安全をおびやかす」ことでもないかぎり、厳しく叱ったり咎めたりするべきではないのかもしれません。子どもって、あれやこれやのことを、ほあほあと、自発的にやります。目新しいものには手を伸ばします。触って、舐めて、感触を知ろうとします。


幼児が何かをやってみた中で、他の人(たとえば周りの大人)に「それはいい!」と思われることがあると、ほめられます。その大人たちが、喜んだりします。その子にはきっと、「このおこないはよろこばれるんだな」ということがわかるでしょう。そんなような小さなことや大きなことを繰り返しながら、成長していくのかなと思います。


理想の自分がいるとします。これをよく、「目標」なんて名前で呼ぶことがあると思うのですが、その姿に対して、今の自分が劣っているところがあると、その差異に着目して、さも今の自分が足りないところだらけであるかのように思ってしまいます。それは、あくまで目標とする姿を基準とした際の差異なのですが、さも、その差異の存在を「いけないこと」のように評価してしまいがちです。


子どもの「できるようになったことひとつひとつ」がよろこばれ、受け入れられがちなのは、まだその子が「何になるのか」「どういう方向へ進むのか」が未定だからというのがありそうです。それが、たとえばその子が中学生くらいになったとき、「来週のあたまにテストがある」という「目標」(ほんとうはそんなもの「目標」には足らないのですが)がはっきりした瞬間、まわりの大人(とくに親しい存在の大人)は、その子がたとえば「ゲームに興じている」のを認めると、咎めたりしてしまうかもしれません。「君のいまのおこない(ゲーム)は、目標(テスト)と相容れないのでは?」という論理で、責めてしまうのです。


「テスト」なんて仮の目標さえなければ、その子の「ゲームに興じる」というおこないは褒められるべきと私が言いたいわけでもないのですけれど、でも、たとえば3歳くらいの幼児が、並の大人では到底たたき出せないようなスコアを「テトリス」ゲームではじき出してみせたとしたら、周りの大人は大変におどろくでしょうし、「この子は将来どうなるんだろう」などと、おもしろがりはしても決して落胆したり責め立てたりはしないはずなのです。


人間の脳は、ものを考えたり、大量の情報を処理するために大きくなったのではない。大きくなったがために、ものを考えたり、大量の情報を処理できるようになったのだ。というようなことを、最近、梅棹忠夫さんの『情報の文明学』で読み取ったのですが、子の育ちのことや大人の成長のことと、とても関わりがあるように思えます。


お読みいただき、ありがとうございました。