生鮮ばか

思い出すだけで恥ずかしかしい過去の体験ってありますね。主に恋愛に関わることかな〜という気がしますが、それ以外にももちろんあるでしょう。それって、生々しすぎて、なかなか言えません。青臭いから、開陳するようなものじゃない。青臭さなんて、自分にも他者にも、めったに嗅がせたくないからです。


ところで、年をとると、身体的におとろえます。それって、「ばかになる」ことと同義なのかもしれないと疑っています。からだとこころはいっしょだとしたら、つまり、からだ(=身体機能)が「ばか」になれば、こころも「ばか」になるのでしょうか? よく、からだとこころは別物であるかのようなとらえかたをしてしまいがちです。ですが、そのことへのカウンターとして、「いや、別物じゃないんだよ。からだと心はいっしょなんだよ」とするとらえかたもあると思います(いえ、そもそも、特に何かに対しての「カウンター」なんかじゃなくても)。


「ばかだったな」と思うような自分のことって、なかなかひとにはいえません。そんな話、人に聞かせたら迷惑なんじゃないかと思います。もし、そういう話ができたときって、すでに、「ばかだった話」というよりは、「教訓」に変質しているのじゃないかと思います。ある意味、「ばか」という生々しさ、そう、「生鮮度」がすでに失われている、劣化している状態とみることもできます。「ばか」なことは、自分にとどめておくことで、その鮮度(生々しさ)を保っていられるのです。その恩恵を受けられるのは、おもに自分。


「ばかさ」をそのまま笑い草にできるのは、すごい能力ですよね。人に話すネタにしているのに、教訓を押し付けたりしないのです。「そういうことってあるよね」という共感と、「そんなとらえかたをするのね!」とか「そこに目をつけて、しかもそんなに広げるなんて!」とかいった驚きを同時に感じさせるような。お笑いの芸には、そういう可能性があるように思います。


「ばかさは自分の中にとどめておくことでその鮮度を保っていられる」なんて、なんだかよくわからないことを申し上げたかもしれません。もう少しここを補足しますと、「今の時点では、人に話せないし、笑ってもらえるように話せる度量も技量もない」ことだとしても、それを持っていることで表出したり表現したりするものがあると思うのです。今の私の持ち物は、そんなものばかりかも。


(自分の加齢や劣化を思うことがありますが、案外まだまだ、生々しさ・青臭さがみっちりじゃないか、なんて、ちょっと勝手に思い至るのです。)


お読みいただき、ありがとうございました。