友だち 〜期待はしても、求めない〜

人は、生きていれば、「いつまでもそのときのまま」じゃいません。変わっていかない(ように見える)部分があったとしても、変わった(ように見える)部分が常にあるはずです、再会するたびに。


私は、よく、友達のことを意識します。頭の中で思い出すというだけです。その人の存在を想像します。その像は、最後に会ったときの姿です。そこで止まっています。


正直、私がその人のことを思ったその瞬間に、その人がどこか別の場所で生きていても亡くなっていても、あまり違いがないかなと思います。


再会がかなったときは、最後の姿を更新できる、というだけです。友達の最後の姿をまたしても更新できるのは、嬉しいことです。嬉しいことは、その数が多ければ多いほどにいいというわけじゃありません。多い方がいいじゃん、とあなたは思うかもしれませんが、そこは数の多さだけがすべてじゃないですよね? と、ここではあえて言っておきます。たったひとつの嬉しいことを、いつまでも大事にしたっていいはずです。新しい嬉しいことのために、前の嬉しいことをひとつ忘れてしまったら、絶対数は変わらないじゃない? なんてことも思います。どれだけの嬉しいことを保持できるかは、その人にかかっているかもしれません。失わずに、どんどんその数を増やせるよという人は、そうすればいいのかもしれません。


私はいま33歳ですが、20歳前後くらいで亡くなってしまった学生時代の友達も何人かいます。彼らの姿は、最後に会ったときのまま、私の中で更新されていません。一方、生きているはず(亡くなったという情報を聞いていないというだけ)の同級生たちでも、20歳前後くらいで最後に会ったきり、一度も会っていない人がたくさんいます。


これまでに会ったり、その存在を見聞きした人で、よく思い出す友達や知人、尊敬する人もいれば、会ったことや一緒に過ごしたことがあるにも関わらず、ちっとも思い出さないで済んでしまう人もいます。


よく思い出す人であったとしても、私はどういうわけか、更新したいという欲求がありません。「今どうしているかな」と思うことはあっても、気にする・気になる・確かめたいということがないのです。アップデートされていないだけで、その人の像は、私の中にずっといます。


その人が生きていて、再び会ってみれば、変わったように見えるところと、変わっていないように見えるところが両方、きっとあるはずです。そういった点を観察して知ることは、きっと嬉しいし喜ばしいことのはずでしょうけれど、その数が増えなくても私はかまわないのです。


よく思い出す友達がいたとして、再会してわかるその人の変化や無変化それは、もちろん、今後の私が生きて行く際のヒントになりうるとも思います。ですが、そうでないところにも、ヒントはいくらでもあるはずです。干渉しても無干渉しても、お互いに生きていけるのならば、私は「求めない」という態度をとりがちです。


求めないのに、再会できたら嬉しいじゃないですか。(「嬉しさは数じゃないウンヌン」言ったのと矛盾しているかもしれませんが。)「求めずに、再会すること」こそを、どこかで期待している。そういう存在を、私は友達と呼んでいる気がします。期待はしても、求めちゃぁいないのです。この違いがわかってもらえると、嬉しいな。


お読みいただき、ありがとうございました。