「徹底」に終わりはあるのか

・うがい、手洗い、体調管理。

私はひんぱんに歌う活動をしているので、声の健康が最大の関心事です。いつも、いかに体調管理するか考えています。そのわりには隙だらけなのか、あの手この手を実践している気になっては風邪をひく、ということを繰り返しています。


・早寝した次の日はつい夜更かししちゃう。

うがい・手洗いも、習慣づけたつもりでいて、実は理想的なうがい・手洗いができていないのかもしれません。元気なときほど、形式的で、不十分なうがい・手洗いになりがちです。いつもいつも、「すごい悪さをする菌やウィルス」が手や腕にびっしりついたり、口やのどに入り込んだりしていると思ってうがい・手洗いをするべきなんだろうなと思います。


元気に過ごして、調子に乗った時期の次には、いつもかならず、体調の「下降」がやってくるのです。そうした「バイオリズム」といいますか、生きていれば「波」があるのは当然のことかもしれません。にしても、どうして私はいつも、ついつい「早寝をした次の日は夜更かししちゃう」んでしょうか。早寝早起きを実践することほど効果の高い自己管理法はほかになさそうだとわかっていながら。意志が弱いのかいえ、意志のせいにすること自体がそもそも問題で、ただ、計画したり、決めた方針のとおりに暮らしを実行すればいいはずなのです。もちろん、「実践の手応え」や、そのときどきの「情勢」を鑑みつつ、方針や計画の修正は随時するべきなのでしょうけど。


・「徹底」に終わりはあるのか

気にして、配慮して、変えられることや改善できることがある場合は、それに力を注ぐべきかもしれません。ただ、リスクがあることは何もできない、というのはおかしいです。リスクは、どんなことにだってあるはずですから。「外を出歩けば、それだけで交通事故のリスクがあります。だから、いついかなるときも、一切出かけてはいけませんよ」という風にはなりませんよね。それは、そのリスクがあまりに小さいからとか、考慮して行動を慎むには十分とはいえないと判断されているからなのかもしれません。あるいは、その取捨選択のプロセスすらそもそも省略されている場合がほとんどかもしれませんが。


リスクが、行動や計画を慎むのに足りる水準で高いのならばそういう情勢だと踏んだのならば、「安全」をとる選択もあるでしょう。もちろん、安全もタダではなく、コストがかかるはずです。だからといって、「どっちにしろコストがかかるのだから、おのおの好きにすればいい」などと言う気もありません。


ただ、あることが関心の的になり、そこに注意が集中しすぎることにもリスクがあります。そのことによって、無意識に排除してしまっているほかの情報があるはずです。その中には、ほんとうは注意を向けるべき情報が含まれていると思います。いえ、といいますか、本当に私が思うのはそんなことじゃなくて「行動を慎まない者の存在が絶対悪とみなされるような風潮が生じがち」なのが気になる、というだけです。


ある特定のニュースを発端として、関心の的になる「リスク」があるのですが、それに相当するようなリスク、あるいは「もっともっと大きくて危険な、まったく別のリスク」って、いくらでも私やあなたが日常ですごす範囲において存在しているはずなのです。そんな、「すんごい危険」と実は私もあなたも、日々すれ違いまくっている。一時的な話題の加熱で、「新たな、ものすごい危険」が登場したかのように見えがちな瞬間がありますが、そもそも、もともと、コワイことっていっぱいありますよね。というだけの話です。


「うがい・手洗い・早寝早起きを徹底しても、風邪をひくときはひく」は真実に思えるのですが、私の場合、「実は徹底できていない」というドンデン返しが考えられます。でも、その「徹底」に終わりはあるのでしょうか? という問いを結びとしたいと思います。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎