人+象=像

象の存在って、ファンタジーですよね。あんなにでかくてユラユラしていてたくさん食べてたくさんうんちする生き物は不思議でなりません。鼻(くちびるらしいですね)も長いですし、器用に動きます。でも、確かに、私は象が実在することを知っています。実物を見たこともあります。触ったことはさすがにないですけれど、においの粒子なら私の鼻の粘膜に触ったと思います。


私は、たまに、妖怪になります。たまになんかじゃないな。けっこう、しょっちゅう妖怪になります。たとえば、こども(三歳)がごはんをなかなか食べないときなんか、私はへんな妖怪になります。どんな妖怪かというと、こどもが「ごはん、食べたほうがいいんだろうな」と少しでも思ってくれそうな妖怪です。そうしたものに私はなって、こどもがごはんを食べるように仕向けようとするのです。それで、ごはんを食べてくれるときもあれば、食べてくれないときもありますが、まぁ最終的にはたいてい遅かれ早かれ、食べてくれます。


そんなようにして、「着替えてほしい妖怪」とか「歯磨きしてほしい妖怪」とか「トイレ行ってほしい妖怪」とか「就寝してほしい妖怪」とか、いろんなものに私はなります。「妖怪」の部分を、「変態」と呼ぶこともあって、たとえばこどもが食べ物で遊び始めたときなんかに「あ! (そういうことをすると)食べ物大事にしてほしいヘンタイ来るよ?」と前置きします。こどもは楽しがって、結局、「大事にしてほしいヘンタイ」が来ます。で、事態が悪化することがないともいえません。


人間って、それ自体が変幻自在で、いろんなものになります。妖怪なんかも、ほとんど人間じゃないかとも思える、そんな見方ができると思います。たとえば、人を殺す悪い妖怪だとかに、実際、人間がなっているじゃないか、とも思います。極端なたとえです。そんな悪い妖怪がいるのかどうか私は知りません。悪いたとえですので、妖怪や妖怪のことを好きな人にあやまらなくちゃいけないかもわかりません。(だとしたらごめんなさい!)そんなのは、妖怪じゃなくてただの悪、かもしれません。ただの悪なんて生易しいものじゃなく、非道い悪。


まぁ人殺しは極端な例だとしてもですね。やたらとお金やモノに執着するとか、がめついとか、やたらと人に優しいとか、いろんなものに人はなるのです。いてくれることが、本人や誰かがうれしくなったりやさしくなったり楽しくなったりするきっかけになる、そういうものだってあると思うのです。そういう「いい妖怪」に、人がなる局面も多いのではないかなと思います。もちろんその反対で、だれかを困らせたり、追いつめたりするものになってしまうことだってありえるわけです。


「ある」と思ったとき、その時点で「想像上」に存在することになります。そのことが、心の構造になるのですね。現実の存在ならば、「想像上」から「想」がとれて、「像上」になる程度の違いです。「上」があれば、「中」や「下」もあるかもしれません。「上・中・下」以前に、「像」そのものかもしれません。像から「にんべん」をとれば、「象」になりますね。



大陸が動くくらいですから、「固くて、止まって」見えるものでも、ながい時間の経過をぎゅぎゅっと縮めて見たら、ドロドロでユラユラでサラサラです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎