ダシドリップ

一杯のラーメンをつくって、お客に出すとします。その丼は、たくさんの選択や思考を経た研磨のたまものです。どうしてその材料を選んだのか。どうしてその調理法をとったのか。どうしてそういう形状に加工したのか。どうしてそういう順番で、どうしてそういう提供方法や器を選び、どうしてそういう盛り付けにしたのか。すべてが、選択や可能性の広がりの中からより抜かれた答えのあらわれです。さらには、食事する環境はどうかと、限りなく広がっていきます。


ラーメン屋巡りをかつてはよくやりました。頼れる筋から聞いたり、グルメアプリで検索したりして知った店をよく訪問していました。最近の私は、その「おでかけのダシ」すなわち「口実」が、ラーメンから「コーヒー」に変わったかんじです。


「お食事」のようなボリュームが、コーヒーにはありません。よりお手軽で、楽しむためのシチュエーションの制約がより少ないように思います。お腹がすいていなくても楽しめるし、もちろん食事をする前に楽しむこともできるでしょう。


よりいろんなコーヒーを、かつてより楽しみやすい世の中になったと思います。それこそ、私がラーメン屋に頻繁に行っていた10数年前よりも。この経過のあいだに、よりいろんなスタイルで、よりいろんなコーヒーを楽しめる店が増えました。


また、コーヒーの周辺にある楽しみをサポートするような環境や仕組みやサービスも増えました。たとえば雑貨屋さんやデパートなんかに行くと、必ずと言っていいほど、コーヒーを楽しむおこないの周辺にある器具の類いを見つけることができます。


何かをする、そのおこないの口実になってくれるのです。その口実が「コーヒー」じゃないと駄目ということはまったくありません。実際、かつての私でしたら、その口実はラーメンでした。うまいラーメンを食べさせてくれる店に出かけて行って、食べて満たされて、帰りがけにその周辺の街を散歩して帰ってくるなんてことをよくやっていました。ラーメン帰りのコーヒー、なんてこともあったなと思い出します。


昔よりも、私が、より高いカロリーの含まれた、より量の多い食べ物を必要としなくなったせいかもしれません。現在でも、ラーメンを食べる機会は、減ったにせよ、なくなってはいません。ラーメンがそうじゃないなんてことはまったくないのですが、コーヒーの方が、家で楽しんだり、店で楽しんだり、屋外で楽しんだり、一緒に楽しむ仲間の種類や人数などの規模もより自由で融通が利くように思います。もちろん、重ねて強調しますが、ラーメンがまったくそうじゃないわけではありません。私の近年のスタイルと、「コーヒー」周辺のことがたまたま同調してきたなぁという感慨があります。


たとえば、右に行ったことがあると、ついまた右に行ってしまいがちです。そこで、左に行ってみるようなことを楽しんでいるのです。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎