プレイヤーとかクリエイターとか

今の私のしている主な仕事のひとつに、窓口業務があります。電話も非常に多いのですが、私の場合はそこが「公共の施設」なので、直接その場にやってくる人も同じくらい多いです。


新型ウィルスの感染拡大のことをきっかけに、在宅で仕事をすることの可能性に注目が集まっているように思います。たしかに、会社に出勤してきて、みんながそこに集まって仕事をしているのに、みんながそれぞれの端末につながったモニターのほうを一日のあいだのほとんどの時間見つめているという状況があるのだとすれば、「その仕事って家でもそれ以外の場所でもできるのでは?」と問われたとき、それは一理あると言わざるをえないような気もします。たとえば「家のパソコンでは仕事でつかっている高度なソフトが動かせないよ」とか、そういった細かいことに代表されるようないろいろの問題はそれぞれあるかもわかりません。でも、「じゃあ、その問題解決するにはどうしたらいいか」と考えて、それをひとつひとつくつがえして行った先には、「仕事をする人みんなの理想的なはたらき方」みたいなものがあるのではないか、なんて思います。


ところで、私の勤める公共施設は、そもそも「つどうための場所」であることが主な機能・役割のひとつです。そこに、「その場を運営管理する人」が誰もいなくて、無法状態になってしまうというのはどうかと思いますから、やっぱりそうした場所を勤務先として、出勤してきて仕事場とする人の存在は重要とも思います。在宅ワークの可能性を考えるとき、やっぱりあらゆる種類の仕事のすべてのプロセスにわたってそれが適用できるとは限らない、というのもまた一理あることだと私は思っています。言うまでもないことかもしれませんが。


私のしているような仕事にはそういう、「場の制約を取っ払うことが本末転倒になる」要素が部分的にあったりしますが、たとえば民間の企業に従事して、私とはだいぶ性質のちがった仕事をしている人の中には、「習慣として出社している。実は、この習慣は、こまかい問題の解消が図れさえすれば、変えられるものだと思っている」なんて人も結構いるんじゃないかな、なんて風にも思います。


今回の新型ウィルスのことがきっかけとはいえ、「ほんとうに、いまのいま検討して、変えるためにやるべきことをすぐやる」という方に向くことには、私は勝手に希望を感じています。


その方向を考え、実行していくほどに、現在の私が従事しているような「(場の制約を解消せよという文脈もみとめた上での)あえての“場”が果たせる可能性」も、浮き立ってくるんじゃないかなぁなんてふうにも思います。


「制約」というと、あなたはどんな印象を受けるでしょうか。悪い、不自由なイメージでしょうか。それもあると思います。一方で、単に、「ゲームのルール」くらいのもので、ゲームを成立させるためにあるというだけのなんでもない存在だったりもするのではないでしょうか。たとえば、サッカーで、「手をつかってはいけない」ことに腹を立てて、そこを変えようとする人はあんまりいないんじゃないかと思います。ただ、そういう制約を、ゲームを成立させるための条件としているだけにすぎません。そこはなんでもいい。たとえば、現在のこの国の、この社会の、この世界の情勢がその「制約」にあたるものだとみれば、その中で何かやることは何も不自由なことではないし、生き生きと楽しんだり、そこにおける活動を生きがいとする人が現れたりしてもいいんじゃないかと思うのです。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎