豊かな時間

まるで災害時のようだけれど。


先々月、私は福島県新地町に行きました。東日本大震災をきっかけにうまれた交流の連なりの先にある催しごとの関係で行ってきたのでした。その新地町のとなり、内陸側にあるのが丸森町とのことでした。(丸森町は、昨年の豪雨で被害の大きかった地域です。)新地町のほうでおこなった催しごとの中の「抽選会」では、「丸森町のビオラ」が景品になっていました。はっきりした色合いの、小さくきれいなお花です。そのときの私は、新地町に12日で滞在しました。タイムスケジュール的に、おとなりの丸森町を訪れることは、そのときはかないませんでした。近くにいた新地町の人に、「このとなりが丸森町なんですよね?」なんてことから口を開いていくつかの言葉を交わしたのみでした。


新地町では、私はギターとハーモニカを携えて、ちょこちょこっと催しごとの中で歌って演奏をしました。はっきり言って、私が楽しみたいがために行き、そのもくろみ通り演奏を楽しんだのみだったのですが、それだけでとても現地のかたがたに喜んでいただけたことが、とても、ありがたい体験でした。「演奏しに行った」なんて、ぎょうぎょうしい。ぶっちゃけ、「行った」だけです。それが、それだけのことが、訪問者を迎える側は、うれしく思えるということがあるのかもしれません。


訪問者を受け入れる立場を、自分に置き換えて想像してみるとどうか? 電車やら新幹線やらを乗り継いで、何はなくともこちらを訪れてくれる人があることは、確かに、ありがたいし、「よく来てくださった」の念あるのみ、という感じかもしれません。受け入れるのが私だったら、とにかくなんもないけど、まあコーヒー淹れるから飲んで行ってよ、という感じです。飲んでもらったらそれだけで嬉しいです。おいしかったのひとことでももらったら、おつりが来るくらいです。


昨日は、なんとなく、「自宅以外の室内」を避けて行動している自分がいました。ちょうどいま、私の妻や子どもたちが妻の実家に帰省中でして、こちらに残った私はひとりで多くの時間を自宅で過ごしました。それでそろそろ太陽の光を浴びたいなと思って、近所の大きめの公園に本をもって出かけました。すると、なんと人の多いこと。何度も訪れている、よく知った公園ですが、あんなに多くの人がいる光景を私ははじめて見ました。お祭りでもないのに、です。(確かに「おまつり」のときは、もっと多くの人がいます。) だいぶ出遅れた私が公園を訪れたのはもう夕刻まえでしたが、家族、カップル、そして、周遊路でランニングやウォーキングをする人の多さが際立っていました。「この街、いっぱい人住んでんじゃん!」って思いました。いえ、知ってはいたのですけれど、知らなかったような


自分を含め、そうした人たちのようすがあった公園。人々の表情は、明るく見えました。公園で過ごす時間を楽しんでいる。そう見えたのです。私は、芝生に腰をおろして、木の根元によりかかってしばしの読書を楽しみました。間もなく、日が落ちて、寒くなって帰りました。



お読みいただき、ありがとうございました。また来よう、と思いました。



青沼詩郎