必要なものを、必要なときに、必要なだけ

なるほど、「自粛」であるはずが「他粛」みたいになっていやしないか? と思わないでもありません。積極的な取捨選択の結果かい? といいたくなることもあるかもしれません。取捨選択を手伝う真なる情報集めのために自ら努めたか? 信じるに足る情報だと、根拠を示せるものを基準にしたか? 基準は基準として、自分の思考や主義や信念を通ったか? それでその結果として、「自らの発言や態度やおこないを慎ましくした」のであれば、それこそが本当の意味での「自粛」なのかもしれないと思いました。


そうやって、自分でどこかへ足を運んでみたとします。その運びが、足並みが、たまたま多くの人と重なることがあるでしょう。私は先日、近所の大きめの公園に行ってみたら、ほんとうに多くの人がいて、あそこにいた人たちの表情はどれも柔和だった。思考だの信念だの堅苦しいごたくはまぁ置いとくとして、あそこには、他人に強いられて嫌々来た人というのはあんまりいなかったんじゃないかな。なんて思います。「流された」というよりは、「流れた」という感じ。その流路に、たまたま公園というものがあったのです。なんて仮説。


自分や他人を、少し貶めたり、節制させたり、控えさせたりということに後ろ向きな快感がわずかにでもともないうるとします。それって、「復讐」とか「仕返し」とか、暴力の連鎖みたいなものの根源にある気持ちと似てるんじゃないかな、なんて想像します。ほんとうの意味での「節制」とか「慎ましさ」とか、「足るを知る」みたいなことって、その生き方こそが「贅沢」なんじゃないかと思います。いれ、「贅沢」の本来の意味を気にするとチト違うかな、なんでしょう、「豊かさ」みたいなものでしょうか。「必要なものを必要なときに必要な量だけ得る」というだけのことですが、それこそが、真に未来のほうを向いているし、そのときそのときの自分や他者の自由を保つ指針なんじゃないかな。なんて思うのです。


紙や机の上で、「思う」。そして、土の上で「生きる」のです。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎