真似なのかリスペクトなのか

「ほんとのオリジナル曲なんて、いっこもない」みたような極論、そうしたタイトルを目にしたことがあります。ネットで目にした本のタイトルだったか、ブログ記事のタイトルだったか正直覚えていません。おそらく、人は生まれてきて、その世界に(すでに)いる人たちのことを真似して、自分もからだを動かしたりものを考えたりしながら生きていく、つまり、「すべては見よう見まねだ」ということを強調した論旨なのかなと想像します。想像でしかなくて、私はそのタイトルの本を注文することもなければ、(それがブログだったとしたら)クリックして中身を探ってみることもなかったので、果たしてそのようなものかどうかはわかりませんけれど。


そのくせになんで、こんなことを例に引っぱり出しているのかと言いますと、私の知る、他の様々な人たち(会ったことがない憧れの人や尊敬する人、ならびに、幸運にも実際に会ったことがあって知り合っていてそれでいてかつ尊敬や憧れの対象に相当する人など)が語る様々なことの中に、なるほど、「すべては見よう見まね」的な極論も確かに一理あるかなと思わせるようなものが、ところどころに含まれているように思うからです。


一方で、違った見方をする1人の私の意見に焦点を当ててやるならば、「結果として見よう見まねと区別がつかなくなっただけである」ということも、ありえそうだなと思います。「見よう見まね」で出発した部分があったとしても、そこから先は「真似の対象となる本家についての情報」を得ないで、自分で考えたりとにかく先ず身体を動かしたりいろいろやってみているうちにできたものたちが、結果としてすでにある、先例に似た物(者)になっているということもありそうなのです。


私は音楽を愛していて、歌ったり演奏したりする活動をしています。で、「フェイヴァリットミュージシャン」みたいなものもたくさんいます。彼らのつくった曲を、たくさんなぞって、そのつくりを調べて、つまりまずは「コピー」してみながら、自分の身体や反射神経をつかって演じてみるということを幾度となく繰り返しています。そんな経験は、きっと、自転車に乗ったり、箸をつかったりすることに似て、私のからだや思考の淵に刷り込まれています。私がもはや「本家」となる先人たちについての新たなインプットを得ずに、自分で試して、自分のアウプットに至ったと思い込んでいるような成果物の数々も、他の人が見れば「あの××年代の伝説のバンド、●○のフォロワー丸出しやな」(と思う)なんてことだって、いくらでもありえるわけです。そんな批評を幸運にも直接耳にする機会があると、私はきっと、無性に悔しくなります。「ちくしょう、●○好きなのは確かだけど、おれは●○じゃねーし!」なんて心の中で叫ぶかもしれません。


もはや、「真似した意識」がどっかへ行ってしまうことだっていくらでもありえます。で、区別がつかなくなります。さらには、最初から「真似した意識などない」、つまり真に「真似ではない」ものでさえ、ある人の目には「真似に映る」ことがありえます。


「結果として似ること」を、私は思います。それは、たとえば、「結果としてキリンの首が種全体として長くなったこと」なども思い起こさせます。ふたつはぜんぜん違う話なのですけれど、私にはとても重要な接点のあることに思えてなりません。「意図の有無」は、結果を語るうえでは実は些事なのかもしれません。経過を評価するうえでは、きっと重要なのでしょう。(私が義務教育の一環としてくぐってきた数々の門、その向こうに立つ学び舎の中で重視されがちだったことかもしれません。社会に出ると、その常識のルーラーを持って歩く姿は滑稽に映りうることを私は知りませんでした。今でさえ、そうした計測に用いる道具を捨ててはいないでしょう。)


他の人の成果物や提案・提示、もっと広く浅く言えば、単に姿勢や態度に感心したり共感したりすることは多いです。いかに、「あからさまな真似ではない何か」をやるか。その原資になるものが自尊心であるようにも思いますし、結果的に形成されるのが自尊心なのかもしれません。「真似かどうか」は、評価の正当性を揺るがすものではないようにも思います。


でも、「エゴ」がそれを無視させてくれない。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎