私には、長いこと会っていなくても「友達」という認識でいる人がたくさんいます。なんででしょうか、ずっと会っていないのならば、関係が切れていると客観的に評価されてもおかしくないような気もするのですが。
友達って、継続的に会い続ける関係をいうのでしょうか。継続的に会うことがなけりゃ、友達とはいわなくなってしまうのでしょうか? 会うのを達成しなくとも、メッセージや電話など、なんらかの方法での意思の伝達があれば、会ったのに準ずるような効果があるのでしょうか。
私には「同級生」なるものがたくさんいますが、その中には、学校を卒業して以来、会った人もいれば、会っていない人もいます。で、会った場面や遭遇の有無に関わらず、いまだに友達だと思っている人がその中には含まれているのです。
これは、誰が友達で、誰が友達じゃないか、という境界に対する、私の思考停止なのでしょうか? 最後に友達という認識であったときから、一切更新がなされていないというだけなのでしょうか。
でも、むしろ、なんでしょう、たとえば仕事の関係で、縁を保ち続けていたいとかお互いの存在を印象づけておきたいといったことがあるのは、友達とは違う気がします。
私の思う友達って、相互に自立した関係なのかもしれません。お互いに深く関わり、交わることなしにも生きて行ける仲です。一方が堕落したらもう一方も引っ張られるとか、生活に深刻な支障を来すとかいう関係だと、私の思う友達という存在とはちょっと違うように思います。
だから、ずっと会っていなくても、友達のままでいられるのかもしれません、私の場合。
別の話になりますが、何かの生産が止まる時期が一定期間あるとします。そうすると、その生産活動の成果物を活かした二次・三次の生産活動、生産にこだわらなくともさまざまな活動も一緒に止まりますよね。
枯れていく木もあれば、芽吹く木もあるから、いつもいろんな高さの木をどこかに見つけることができます。それが、ある時期に芽吹く木がなくなってしまったとしたら、その世代が、ある範囲の自然から抜け落ちてしまいます。
災害や事故なんかがあって、生まれるものが滞ります。そういうことがあると、その影響は、もっと先の二次的・三次的、もっといえば四次・五次・六次があったかもしれない未来まで続いていきます。
人為的に、努めて生もうとしたり、反対に、努めて生み出すのを控えたりということもありえるでしょう。その影響が及ぶ範囲って、風が吹けば桶屋が儲かる式に広いことを思います。この世のすべての、あらゆることにおける「風が吹けば桶屋が儲かる現象」を説明せよと言われても、私にはかないません。
反対に、「風が吹けば桶屋が損する現象」的な論理が立つ場合もありそうです。論理はいいのですが、それが具体的な根拠に基づいているかは別で、もしそうでない論理なのだとしたら、それは言いがかりと区別がつきません。
何が言いたいわけでもないのですが、生み出す手を止めることで、代謝が止まり、滅んでしまうものもあるかもしれません。滅んでしまったら、取り返しがつきません。そうなったら困るものは、見過ごせないでしょう。
ただただ私は、たとえば、友達を直接困らせないような範囲でおのれの生活の手を止めないで生きているというだけ。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎