「ほのお」に、薪を。

こつぜんと人の姿が絶えた場所が見られます。でも、そこにいた人たちが、ごっそりこの世界から消えていなくなったのとは違います。ある場所を訪れるのをやめた人たちは、また別のある場所にいるのです。


私は、ある公共施設の運営に携わっています。通常なら毎日たくさんの人の往来がある場所ですが、そこは現在、出入り口を閉ざしている状態です。


施設をクローズにするために、十分な周知の期間があったとはいえない展開の早さでした。私や私と仕事仲間の関係にある人たちは、クローズにする期間中に施設を利用する予定があったであろう

人たちに、たくさんの電話をかけました。そうした予定がある程度明らかであり、かつ連絡がつく人たちへの対処だけでも、膨大な件数です。


また、「施設」という器の運用とともに、「中身」の企画や運営もあります。そうしたたくさんの企画を、中止にしたり延期にしたりといったことも数多。これからやろうとしていたもの、すでに進行中だったものに関わる人たちへの連絡や調整をはかるのも必要です。そういった方針も、情勢をみて訂正し、何度も具体的な作業をやり直しすることもありえるわけです。


私個人ではどうにもできない問題はそれとして、やっぱり、また日常が戻った時、人たちが・世の中が活性を再び帯びたときを思って、焦るでもなく、「影響への対処」にすき間をつくって、ある意味「のんびり」進め続けていることもあります。ちょっとした自己学習だったり、情報収集だったりするのですが、そういうことも、「これまであったもの」を保ち・活かし続けた上で、いくらか先の未来に「すっかり萎んでしまった状態」での再開にならないように、実践しています。


考えたり、学んだりといったことのきっかけをつくること。または、そうした活動の拠点をつくったり、保ったり、発展させたりすること。私の従事するのは主にそういうことなのですが、世には、もっと基本的に、たとえば生命を保ち、そうした安全・衛生のための重大な仕事をしてくれている人がいることを思います。


「考える、学ぶ」は確かに、人の生きがいにもなるかもしれませんし、人間が他のいかなる動物とも違う「人間」であるために必須のおこないかもしれません。ですが、命を落としたら、「人間」以前に「動物」でさえいられなくなります。


たとえば医療のこと、生活基盤に関わること。私の及ばないところで、常・非常を問わずに働き続ける人に支えられています。もちろん、「考える、学ぶ」こと、そうした活動にまつわる拠点のことも生活基盤に含まれるでしょうけれど、差し迫って今日・あしたと、食える・眠れる・着れる・住まえることのありがたさがあります。


だからこそ、「考える」とか「学ぶ」とかのことを、それが可能な人がやり続ける意義もあると思います。遊びとか、楽しみとか、生きがいとか、希望が持てそうな一切のことを。


あてにしていた仕事が消え、得られるはずだった対価もなくなったという人が大勢いると思います。私にしてみれば、これまでそうして生きてきたこと自体が、すごいと思うし、尊敬します。私はといえば、自分が影響を及ぼせる範囲にある「ほのお」が絶えないように、状況を見つつ薪をくべ続けるのみ。まぁ、どなたもそうかもしれませんけれど。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎