集中を避ける秩序

制約が多いほどに、その適用範囲の中での行動は幅が狭まります。たとえば、「出勤は週五日、平日」と決められていたら、月火水木金土日の七曜の中から五つを任意に選ぶことはありません。そのことが、都合悪しととらえる人にとっては、それは不自由かもしれません。一方、悩む手間が省けて効率的、ととらえる人があってもよさそうです。制約によって、安心がもたらされるかもしれません。


「月に十七万円のお給料を与えます」という条件のもと働いていたら、仕事内容を著しく逸脱したり、それに著しく満たない態度や業績を呈しでもしない限りは、だいたいひと月で十七万円が得られます。ですが、反対に、「決まったお給料はありません」という働き方の場合、自分の行動で成果があがらなければ、ひと月で1円も得られないかもしれません。もしくは、マイナスかもしれません。でも、反対に、自分の発想や実践が実を結べば、十七万円どころか、三十万でも百万でも、限りなく延びたリターンがあるかもしれません。リスクを受け入れるのには、不安がつきまとうかもしれませんが、それ相応のリターンが得られる可能性、すなわちそれに付随する希望も同時に得られるのです。月十七万円の固定給スタイルにはない希望です。月十七万スタイルの人は、基本的にゼロになることがない安心を、十七万円どころじゃないリターンが得られる可能性を差し出すことで手に入れているのです。それは狭すぎる見方かもしれませんが、そういう一面があります。


極端な話、地球を飛び出して生活したっていいわけですけれど、私にはそんな技術力はありません。ですから、生活範囲を地球上に限っています。いえ、それどころか、日本の、東京の、ざっくり中央あたりにいます。「限っている」なんて物言いは、さもおのれの意思のとおりにそれを実現しているかのような匂いがしますが、単にそうなっているというだけのことで、そこにそんな積極的な意思はなさそうです。


自分の選択や行動、思考や実践で変えられることを、なんとなく意識して生活しています。そこにはもちろん「思い込み」が含まれています。実は簡単なことや、実は難しいことを、反対にとらえていることもたくさんあるでしょう。劇的に何かがひっくり返ったように感じる、そんな経験は、よっぽど重大な勘違いや思い込みでもなければそうそう味わえるものではないかもしれません。小さな勘違いや思い込みでしたら、日々のちょっとした積極性くらいのもので、地道に解消していけそうです。そうして積み重ねていくと、そのうち、「東京の中央あたりだけに限る」「日本に限る」「地球に限る」という潜在意識の適用範囲が変わっていくこともあるように思います。


恐竜やら天変地異やらにおびえていた、小さなげっ歯類にも似た小動物(?)のような姿をしていた頃の私の先祖は、その末裔がパソコンを繰ったり宇宙を飛んだりなんて可能性を意識することはなかったはずです。


可能性の幅が広がれば広がるほど、軌道のバリエーションも際限なく広がります。「道」というのは、何度もそこを物体が通るほどにはっきりするものです。「ほとんど同じ軌道を何度も物体が通過する」という、ある意味での不自然さが、そこを「道」と認識する助けになるような秩序なのです。


空には道がありません。これには、「通った痕跡が残らない」こと、それから、「平面にくらべて段違いに範囲が広い」この二点が大きいと思います。たとえば鳥にとっては、「ある樹上の茂みから、ある餌場まで」といったように「何度も似たような軌道を通過する」ことがあり、見えない道があるのかもわかりません。ですが、その秩序を示す痕跡が何も残らないので、私にはそのことが、よっぽど日頃、その地域の鳥たちを観察し続けるとかでもしないことには、わかりません。


自然にしていると、つい繰り返しやってしまうことがあって、そのことがときに都合の悪さになると知った場合、それを避けたいとなります。で、野放しにするとついやってしまいがちなことを、意図的に、しないで済むような仕組みをつくって、そのルールを敷く、ということがあると思います。たとえば、見通しの悪いところで出会い頭の衝突事故が多い、となりがちなために、「一時停止義務」という道路交通法が敷かれるように。


これまでに「都合の悪さ」があまり起きてこなかったところには、ルールが生まれることがあまりないのかもしれません。だから、鳥は空路交通法を持っていないのです。(あるかも知りませんが。)「重なること」による都合の悪さが起こるには、空は、あまりにも広いのです。


ある都合の悪さが起こるのは、「重なること」に起因する事例が多いのかな、なんて思います。人同士の「利」や「害」が重なる。野放しにすると、そうなりやすい。だから、規制する。という経過です。それが、「人同士」とも限りません。まぁ、他の動物や植物・菌類なんかも環境や自然に含まれるし、私のような人間もそれは同じです。結局はその環境や自然に含まれている人間に影響しますから、最終的にはどんな規制や制限も、「私の利害」につながるのかな、なんて思います。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎