息と休符

休符、それも特に長いものを思うと、私の記憶からずるりと出てくるのはジョン・ケイジの『4分33秒』という作品のことです。休符を演奏するということについて考えさせられる作品です。音符がひとつも書かれていないことで有名な作品ではないでしょうか。(それって曲なのか? と思われるかもしれませんが、そのへんのことについては他をあたってください。この曲について、私が解説に足るような考察や音楽史上の知見を持ち合わせているわけでもありません。)


音楽は止まっても、それを演奏する人間、聴く人間の時間が止まるわけではありません。人間どころか、あらゆる自然が、それまで通り、あるいは揺らぎながら、流れ続けるのです。


『4分33秒』の休符の長さは極端かもしれません。もう少し、日常的にめぐりあう機会の多い長さの(あえて「常識的な長さの」といいましょうか、)休符から連想するのは、呼吸のことです。


たとえば、息を吹き込んで鳴らす楽器は、どこかで息を吸わなけりゃなりません。ずっと息を吐き続けるわけにはいきません。歌もそうでしょう。(息を吸う際にも声帯を鳴らすことはできますが、その例外は置いておきましょう。それから、口中の息を押し出している隙に吸気をおこなう「循環呼吸」のこともあるかもしれませんが、そちらの例外も置いておきます。)旋律と旋律のあいだに切れ目があって、息を吸うことができます。その切れ目が、つぎの旋律の生みの親、ともいえそうです。


私の、ある瞬間における実感の話をしますと、この「切れ目」の際に、あんまりおおげさな息の吸い方をすると、次の旋律の立ち上がりが美しくならない場合が多いように思います。「美しいのが、常にいい」というわけでもありませんけれど、美しさのいかが以前に、単に「思い描いた通りの表現になりにくい」のです。つまり、息の吸い方がへただと、表現に影響を来すのです。(とても論理が超越しましたが。)


独奏だったら、そうした「次の旋律を生む予動(予備動作)のための期間」という性質を多く見出せる「休符」ですが、多くの(複数の)メンバーが協力して奏でる曲について思うとき、あるパートの演奏者に与えられた長めの休符は、その時間が流れる間、ほかのパートの奏者にスポットライトが当たる時間でもあるということです。


この時間に、休みを与えられた奏者は何をするか? それはもちろん、奏者によってさまざまでしょう。それがもし私だったら、どんなことが予想できるでしょうか。まず、次の旋律を演じるときに再び最高のタイミングで「音のある場」に帰ってこられるように、休みの適切で正確な長さをはかる(カウントする)努力を怠らないでしょう。熟練したり、曲の暗記が進んでいる場合は、この「カウント」に費やす努力がもっと少なくて済みます。そうするとどうなるでしょうか? 他の演奏者の演技に注目する余裕も生まれるかもしれません。楽曲そのものの構成や細部に注視する楽しみもあるかもしれません。猛者は、「おなかすいたな」「今晩のめし何にするか」とか思うのかもわかりません。


休符のことに思いを馳せると、私の頭の中にはたくさんの映像が立ち上がります。私も、たいそう休符が好きな1人に入るのでしょうね。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎