ビールもコーヒーも、はじめから美味しかった?

とても極端なパフォーマンスをするあるバンドがいて、あるとき、私は彼らの表現に対して嫌悪を抱きました。いえ、ひとまず嫌悪と言い表してはみたものの、厳密にはぜんぜん違うかもしれません。嫌悪というよりは、「なんだこれは?!」という驚きと戸惑いでしょうか。その表現と、どう向き合っていいのかわからない。解釈や理解の助けになる知見が、自分にない。そういうことなのかもしれないし、もっと平たく、単に、「肌ざわりが合わない」みたいなことなのかもしれません。


音って、まぶたを閉じたり、目を反らしたりするみたいに、遮断したり入ってくる量を容易に調節することができません。もちろん、その場所から遠く離れたところへ向かって移動するとか、少しでも音源との間に多くの遮蔽物を設けるとか、あるいは自分の耳をヘッドホンと別の再生音源でマスクしてしまうという手もあるかもしれません。まどろっこしいことを述べましたが、両手の自由がなくなってしまうけれど、1番簡単なのは自分の耳を自らの両手で塞ぐことかもしれません。


私に驚きと戸惑いをもたらしたバンドを、仮にXとします。私がXの存在を知ってからだいぶ経ちますが、いまになって、その驚きや戸惑いが好意や敬意に変わったかといえば、そこまででもありません。好きと嫌いは、その影響をもたらす量の多さが作用する方向ひとつで、反転しやすいものかもしれません。一方で、私には、距離をおいたまま、それっきりになっているものごとがたくさんあるのです。


驚き、戸惑い、嫌悪といった激しい拒絶が、好きや尊敬に変わるという体験は、人生にひとつでもふたつでもあったほうがいいことなのかもしれません。数の多さがすべてとはいいませんが、きっと、そういう体験をひとつでも多く持っている人ほど、より多くの人に影響を与える人になっていくのかもしれません。


私にはなかなかそこまで壮絶な反転の物語の持ち合わせが多くはないのですけれど、ある時期にその存在を知って「何がいいのかわからん」「これ以上求めたい、知りたいとは特に思わない」と感じていたものごとが、かなりの時間を経てから再び意識する機会を偶然得たときに、「あれ? これって、すごいじゃん!」「もっと知りたい。」となることがあります。それは、私に、そのものごとにひっかかる何かしらの知識や体験が増えたことに起因するのかもしれません。


つくづく、私は、変わる速度がゆっくりなのです。その自覚があります。ですから、「無関心」から「無」がとれるのに時間がかかりがちです。「嫌い」だったものが「好き」に反転するのも、同様かもしれません。


ところで、はじめてビールを飲んだとき、何がうまいのかまったくわからんと思いましたが、しばらくの期間を経てその飲み物との接触の機会が増えると、いつのまにか好きになっていました。コーヒーも、かつてはまったく好きではありませんでしたし、むしろ「おなかがころころシクシクする」などと嫌悪していたくらいでしたが、今はかなり好きな部類に入るものです。


私の体質が変わって、そうなったのか。あるいは、ビールやコーヒーの周辺体験が増えることで、ビールやコーヒーが自分にもたらす情報から、私がじぶんの内側に生じさせたり、味やさわりごこちといった情報から取り出すものが変化したのか。


音楽や絵や文化に関わるようなものも、食品とは媒質がぜんぜん違うかもしれませんが、そういうところがありそうです。好きなものを繰り返し摂取すれば、そこが深まるかもしれません。知らないものや、避けていたものを積極的に摂取すれば、浅くかもしれないけれど、広まるかもしれません。(視界や、世界に対する自分の認知が。)


どこにどれだけの人生を費やすかは、その人に委ねられています。特定の人が、人生をより多く持っているとかは基本的にはないはずだとも思います。寿命だとか、若くして亡くなってしまうとかいうことの影響がないとももちろんいいません。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎