読書で対を知る

なかなか、家で本を読む時間がとれないでいます。先日、妻が、子どもを連れて、母親ともだちのところへ遊びに行った日は、この頃では珍しく、久しぶりにじっくり一冊の本と向き合えたなぁという実感がありました。子どもがいる家庭だと(いない家庭だとしても、でしょうけれど)、ひとりの時間って本当に貴重なものですね。


いまある生活の中に、急に新しい時間を設けることは困難です。ですから、生活の中に、少しずつでも組み込むしかない。そう思って、私はトイレや風呂(の内側からドアを開いて手が届く距離)にも本を置いています。そうすると、30秒でも1分でも(トイレ)、10分でも15分でも(お風呂)、日常的に絶対やることとセットにしまうことで、本を読む時間がとれるのです。


そうまでして本を読むのが正義! というのもおかしな話です。でも、このことで、気付くことがありました。そうした習慣を持った上で、ときにトイレ中やお風呂中に本を読まない機会を、あえてつくるのです。そうすると、空想や妄想や、現実的な問題への対処や改善案といった考えごとがはかどるのです。いえ、はかどるなんて言うと、なんだかちゃっかりした要領のいい印象を与えますから、「めぐる」といった方がいいかもしれません。脳内で思考を運んだり伝えたりするのは電気信号みたいな「ピピピ」かどうかわかりませんが、思考や感情と「血流」も大いに関係あるのじゃないかな、なんて仮説を抱いてしまいます。


へんな話、本を読む時間を欲し、その確保に苦しみつつも、だましだまし読む。その読書の時間の質ってどうやねん? と突っ込まれると、確かにあまり良質なものでないかもしれませんけれど、とにかくですね、そうして本を読む時間を努めて取る・取ろうとすることで、逆説的(?)に、「本を読んでいない時間のすばらしさ」が味わえるのです。


いつも家族がいる家庭で私は過ごしていますから、ふと訪れた1人の時間の素晴らしさを味わえます。逆に、1人の時間を味わうほどに、家族のいる家庭というものがもたらす素晴らしさを知れるかもしれません。


反対のことがないと、その逆にあるものを知れないなんて、馬鹿なんじゃないの? とか、想像力が欠乏しているんじゃないの? という指摘も可能かもしれません。それは、うーん、どうでしょうね。確かに、あえて最悪な例えを述べますが、「人を殺してみないことには、人を殺さないことの素晴らしさはわからないよ」などという論理は無茶苦茶です。考えや配慮や想像力の不十分な私だとしても、それは違うよと言うでしょう。


ただ、「比べる」というのは、生きることの基本的な単位なのではないかと思います。「差異」があるから、認知ができる。比べることのできないものは、識別できません。例外って、あるでしょうか?


本で、素晴らしいファンタジーを読んだら、現実がファンタジーのようでないことを絶望するでしょうか? それは確かに、多かれ少なかれあるかもしれません。美化された恋愛物語を鑑賞して、現実のおのれの恋愛に関わる身の周りのことと比較して、嘆きたくなることもあるかもしれません。ここで、「なんで、現実はこんなにも劣るのか。許せん。努力してやる。もっと、理想に近づけてやる!」となったり、「ああ、面白すぎた。私もこの作品に負けないようなモノをつくってやる!」と奮起したりして、現実に何か良い影響をもたらすことができたら、それは、本を読んだことによるちょっとした吉事ですね。


また、そんな幻想物語には目もくれずに、読書にあてたかもしれない時間を、ひたすらに現実を見て行動を継続するのに費やすのも、ときに吉と出るでしょう。


フィクションか、実用書かでも、だいぶ違うかもしれませんね。本は読むけどフィクションは読まないという人も多くいそうです。


「こういう知識が要る」というのがわかったうえで、その知識が得られるであろう実用書などを狙いすまして読むと、読書ってすごくはかどります。不要不急なものを、私は身近に置きすぎなのかもわかりません



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎